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ナメストニク()とは、キエフ大公国、リトアニア大公国、帝政ロシアなどの国で用いられた、役職を指す(また、称号・身分や、官吏その人自体をも指す)歴史的な用語である。ナメストニクは行政管区の統治に携わった。 キエフ・ルーシ期のナメストニクはポサードニクに代わって出現した役職であり、公(クニャージ)から委任され、公に指定されたゴロド(都市)やウエズド(ru)(都市周辺地)の管理機関を統べた。 ロシアではイヴァン4世の統治期以来、ナメストニクの社会的意義は減退していった。1775年、エカチェリーナ2世の行政改革でグベールニヤが設置されると、ナメストニクはヴォエヴォダやゲネラル・グベルナートル(ru)(総督)に置き換えられた。その後、ナメストニクという称号はポーランド立憲王国(1874年まで)、カフカス地方(1883年まで)などでは用いられていた。また、1903年に、極東のクヴァンスク州に再設されたが、1906年に同地を喪失した(ポーツマス条約により割譲、関東州となる)際に再び廃止された。 ルーシ、ロシアを中心に、ナメストニクの変遷を概括すると以下のようになる。 *10-12世紀のナメストニク(ポサードニク、コルムレニシチク)は土地管理に関して公の補佐役を務めた。 *12-17世紀のナメストニク(厳密にはクニャージ=ナメストニク)は土地(とりわけウエズドの)管理の責任者の任に就いた。 *ノヴゴロド主教がナメストニクを任命していたという記録がある。この場合のナメストニクはヴィカリー(ru)に類似する存在だった。スタラヤ・ラドガで発見された押印は、主教がナメストニクの援助と共に都市を治めていたことを証明している。史料にも度々ナメストニクについての言及がみられる。 *1175年-1196年(エカチェリーナ2世の統治期)には、ナメストニチェストヴォ(後にグベールニヤと改名)という機関を統べた。 *また19世紀-20世紀初頭にかけて、ポーランド立憲王国の1815年-1874年、カフカス地方では1844年-1883年・1905年-1917年、極東地方では1903年-1905年にそれぞれ設置されていた。 ==脚注== 注釈 出典 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ナメストニク」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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