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ナラパティシードゥー(Narapatisithu、1139年 - 1210年、在位1173年 - 1210年) はパガン王朝の王。チャニャスー2世とも称される。伝説上の人物も含めると47代目の君主にあたる。 ==治世== パガン朝において重要な役割を果たした君主のなかで、最後の人物であると考えられ、スリランカとの抗争で混乱していた王国の統治を再び安定させた。その平和と繁栄のもとで独自のビルマ風文化が興隆し、ピュー文化やモン文化の残影から脱していった。彼の治世において主にビルマ文字が用いられるようになり、碑文にも「Mranma(ビルマ人)」という表現がみられるようになった。 祖父アラウンシードゥー(チャニャスー1世)は全ビルマを治める統一的な法体系を築こうとしたが、これを受け継いだナラパティシードゥーは、王令によって学僧Dhammavisalaに慣習法を編纂させた。 長年腕の腫瘍をわずらっていたが、苦しむ姿を見かねた卑賤の側室の一人がナラパティーシードゥーが寝入った後、側室自らの口をもって膿を吸い出した。その献身を嘉したナラパティーシードゥーは彼女の子を次代の王とすることを決めた。のちのナンダウンミャーである。 category:パガン王朝の王 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ナラパティシードゥー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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