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ナーシリーヤ(Nāirīyah、アラビア語:الناصرية)はイラクの都市。バグダードの約360キロメートル南東のユーフラテス川のほとり、古代都市ウルの近くにある。ジーカール県の県都。人口は2003年に概算で560,200人。ナースィリーヤとも表記する。 人口の多くはシーア派イスラム教徒である。ナーシリーヤにある博物館はシュメール・アッシリア・バビロニア・アッバース朝に関する大きなコレクションを有する。ウルとラルサの遺跡が近くにある。 1870年ころにムンタフィク部族連合のシャイフ・ナースィル・サアダーン・パシャによって作られた。街の名は彼の名による。第一次世界大戦時にオスマン帝国の支配下だったナーシリーヤをイギリスが征服した。このとき、400人のイギリス兵およびインド兵は2000人以上のトルコ兵を殺した。 イラク共産党はアッシリア人のバスラ電気供給局員だったらによって1930年代にナーシリーヤで結成された。1940年代、ナーシリーヤは君主制に対する反対派の中心地であった。1958年7月14日のアブドルカリーム・カーシムのイラク革命に共産党に影響されていたナーシリーヤの学生組合、農民組織、労働者は大きく役立った。 湾岸戦争の時、アメリカ軍第101空挺師団がナーシリーヤの外側の主要な道路に進出し、イラクにおいて多国籍軍が進入した最も内側の地点になった。アメリカ軍撤退の後、ナーシリーヤのシーア派イスラム教徒はサッダーム・フセインの支配への反抗に参加する。 2003年にはイラク戦争における戦場となった。国際戦略研究所のフィリップ・ミッチェルはガーディアン紙でナーシリーヤの戦略上の重要性を指摘した。そしてアメリカ海兵隊とイラク軍との激しい戦いが3月23日から3月29日にかけて行われた。3月23日にはこの地でジェシカ・リンチを含む多数の兵士が捕虜となった。 その後11月には車爆弾によりイタリア兵17人がこの地で死亡した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ナーシリーヤ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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