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ナーセロッディーン・シャー(1831年7月16日 - 1896年5月1日、)は、ガージャール朝第4代シャー(在位:1848年9月17日 - 1896年5月1日)で、第3代シャーモハンマド・シャーの子。イランの歴史の中で、サーサーン朝のシャープール2世とサファヴィー朝のタフマースブ1世に次いで3番目に長く在位した君主で、治世は50年近くにわたる。シャーとしては初めて日記を刊行した人物でもある。 == 生涯 == 1848年に父モハンマド・シャーの訃報が伝えられたとき、ナーセロッディーンはタブリーズにいた。ナーセロッディーンは、アミール・キャビールの力を借りて、イランの王座である孔雀の玉座にのぼる。 ナーセロッディーンが即位する頃のイランは、バーブ教徒による反乱が起こっていたが、これを弾圧。特に1852年のバーブ教徒によるナーセロッディーン暗殺の試み以降、苛烈さを増した。バーブ教の開祖セイイェド・アリー・モハンマド(バーブ)は、1850年に銃殺。バーブの弟子であったミールザー・ホセイン・アリー(バハーウッラー)はイラクに追放され、のちに、バハーイー教を興すこととなる。 ナーセロッディーン・シャーは統治初期こそ改革的傾向を持ったものの、アミール・キャビールの進める近代化を疎んじ始めたナーセロッディーンは、1852年にこれを暗殺。専制的傾向を強めることになる。 対外的には、イギリスの支配下に置かれていた東部ペルシアの回復、特にヘラートを目標とするものであった。しかし、イギリスがペルシャ湾の港町ブーシェフルを攻撃するにいたり、退却せざるを得なくなった。ペルシアの領域であったアフガニスタンをイギリスの勢力下におくことを認めるパリ条約への署名を余儀なくされた。この結果、ヘラートは現在アフガニスタン領である。さらに、様々な商業的特権や治外法権を承認するとともに、関税自主権をも放棄する事となった。これにより、イランのイギリス、ロシアによる半植民地化が本格化することとなった。 ナーセロッディーンは、近代イラン君主として初めてヨーロッパを訪問した。1873年と1878年、1889年の3回、歴訪している。最初の訪問では、ガーター勲章をヴィクトリア女王から授与された。また1878年訪問の際にはイギリス海軍観艦式に出席。1889年の訪問では、ヨーロッパで接した技術に驚いていることが報告されている。 とはいえ、ナーセロッディーンの時代は徐々にではあるが、イギリスとロシアの半植民地化が進展していった時代である。1872年には、ロイター男爵にいわゆる「」()を供与している。このロイター利権により、ジュリウス・ロイターは、イラン全土の鉱山の採掘権、未開拓地の開発に関して75年間の経済権益を獲得すると同時に、国立銀行、道路、電報、工場、帝国の全ての関税についても25年間の利権を獲得した。ロシアとバーザール商人の反対により、鉱山と銀行以外の利権に関しては、ジュリウス・ロイターは放棄することとなったが、その代償としてペルシア帝国銀行(1885年設立)の設立認可を受けた。これにより、イギリスによる財政・金融支配が始まった。 ペルシャ絨毯こそヨーロッパ世界に珍重されたが、逆にペルシャには廉価な織物が輸入されるにいたり、手工業者の生活を直撃した。また、綿花、ナッツ、果物、アヘンに対する需要が高まった事で、大土地所有制が進展する事となり、農民の生活も直撃した。さらに、近代化の推進により、土地の収穫税が5%から10%に上がったことも追い討ちを掛けた。 そのようなさなか、1890年には、ナーセロッディーンは、に「」()を供与した。20万人が当時のイランにおけるタバコ産業に従事していたが、この利権は、今後50年間、イランにおけるタバコの販売する権利をメイジャー・タルボットに付与するという内容であり、最初は秘密であった内容がイスタンブルのペルシア語日刊紙『アフタール』( - )の報道により、その秘密が公表されると聖職者、バーザール商人からいっせいに反対を受けた。その後、イランは騒擾状態に陥った(タバコ・ボイコット運動)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ナーセロッディーン・シャー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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