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ニコポリスの戦い[にこぽりすのたたかい]
ニコポリスの戦い(ニコポリスのたたかい、, Bitka pri Nikopol; , )は、1396年9月25日に、ドナウ河畔のニコポリスでオスマン帝国のバヤジット1世(在位:1389年 - 1402年)とハンガリー王ジギスムント率いるヨーロッパ諸国(参加勢力:ハンガリー、神聖ローマ帝国、フランス、ワラキア、ポーランド、イングランド王国、スコットランド王国、(Eidgenossenschaft)、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国、マルタ騎士団)との間で起こった会戦。ニコポリス十字軍と呼称される場合もあり、中世最後の大規模な十字軍である。オスマン帝国側の圧勝で終わった。この戦いによってバヤズィト1世は、カイロのマムルーク朝保護下にあったアッバース朝の子孫であるカリフから「スルタン」の称号を授けられた。 ==背景== 14世紀には、国王や騎士によって個人的に起こされた多くの小規模な十字軍があった。最も近くには1390年のチュニジアに対して失敗に終わった十字軍があり、またバルト海沿岸にて北方十字軍が行なわれていた。1389年のコソヴォの戦いでの勝利以降、オスマン帝国はバルカン地域のほとんどを征服し、東ローマ帝国をわずかにコンスタンティノープル周辺へと閉じ込め、のちに包囲した(1390年、1395年、1397年、1400年、1422年、そして最終的に1453年に征服)。 1393年にブルガリアの君主イヴァン・シシュマンは臨時首都であるニコポリスをオスマン帝国に奪われる一方、兄弟であるイヴァン・スラツィミルはなおヴィディンを保っていたが、オスマン帝国の従属国に転落していた。ブルガリア貴族や専制君主、そしてその他の独立したバルカンの支配者たちの目には、これはオスマン帝国の侵攻の流れを巻き返してイスラームの支配からバルカンを解放する大きな好機であった。加えて、イスラームとキリスト教との境界線がゆっくりとハンガリー王国へ動いていた。ハンガリー王国はいまや東欧における二宗教の境界線であり、攻撃の危険に曝されていた。ヴェネツィア共和国は、モレアの一部やダルマチアというヴェネツィアの領土を含むバルカン半島のオスマン帝国による支配が、アドリア海やイオニア海、エーゲ海へのヴェネツィアの影響力を低下させるであろうことを恐れていた。一方ジェノヴァ共和国は、ドナウ川とボスポラス・ダーダネルスの両海峡の支配権をオスマン帝国が獲得することで、カッファ、シノペやアマスラなどのジェノヴァが重要な植民地を多く持つ黒海とヨーロッパの交易路を最終的にオスマン帝国が独占することを危惧していた。ジェノヴァはまた、1395年にバヤズィト1世が包囲を行なったコンスタンティノープルの金角湾の北にあるガラタ地区を所有していた。 1394年に教皇ボニファティウス9世はオスマン帝国に対する新たな十字軍を宣言したが、当時教会大分裂によってアヴィニョンとローマに対立教皇が立って教皇権が二つに分かれており、さらに教皇が十字軍を招集する権威を持っていたのは遠い過去のことになっていた。それにもかかわらず、イングランドとフランスは百年戦争が小康状態であり、リチャード2世とシャルル6世は十字軍に資金援助を与えるために協力する意志があった。ハンガリー王、のちに神聖ローマ皇帝にもなるジギスムントとフランスの連合十字軍に関する折衝も1393年から進んでいた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ニコポリスの戦い」の詳細全文を読む
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