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ニコライ・ドミートリエヴィチ・コンドラチエフ(、ラテン文字転写:Nikolai Dmitriyevich Kondratiev、1892年2月21日(ユリウス暦)/3月4日(グレゴリウス暦) - 1938年9月17日)は、ロシアおよびソビエト連邦の経済学者。「西側陣営の資本主義経済が40~60年規模の好不況からなる景気循環を持つ」という理論を提唱した。この景気循環はヨーゼフ・シュンペーターによってコンドラチエフ循環と名づけられた。 == 経歴 == モスクワ近郊のガルエフスカヤ(Galuevskaya)に生まれる。ペテルブルク大学で学び、社会革命党のメンバーとして農業経済の研究を行った。ロシア革命が発生した1917年、彼はケレンスキー政権下で食糧副大臣を務めたが、ほどなく十月革命が起こって政府が消滅した。 ソビエト政権成立後は、コンドラチエフはモスクワの景気研究所の創立者・所長として、また1921年に始まったネップの理論家として、ソ連経済の復興と発展に貢献した。しかし、農業生産力の向上や生活消費財生産の拡大を重工業建設より重視すべきとする彼の意見は、次第に政治的影響力を失った。資本主義社会が近々没落すると運命付けられているというようなことは無く、むしろ景気の波を経て絶えず再生する、という彼の見解と並んで、ソヴィエト農場の集団経営への彼の批判は決定的なものとなった。1928年に発表された第一次五ヶ年計画はコンドラチエフの方針とは全く逆であった。 コンドラチエフはソビエト政権の経済政策における好ましからざる人物となり、1930年に逮捕された。ヨシフ・スターリンは彼の裁判に強い関心を持った。国際的評価を持った著名な経済学者であることで、コンドラチエフは政権に対する脅威と見做されたのである。コンドラチエフは架空の罪を自白することを強いられた。階級敵を意味する「クラーク教授」の名で有罪を宣告されることにより、彼は1932年にスズダリへ流刑となった。1938年、最高潮となった大粛清により10年間外部との文通の権利が無い、という新たな刑の宣告を受けたが、この常套句は死刑宣告のための暗号であり、コンドラチエフは刑が宣告された同日にモスクワ州ので銃殺された。 1987年になってソ連当局によりようやく名誉回復された。ソ連崩壊後の1992年には、彼の名を冠したが設立されている。同財団では1993年から3年に一度、3人の経済学者に金・銀・銅のメダルを授与する「コンドラチエフメダル」を設立している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ニコライ・コンドラチエフ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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