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新蔵(しんぞう 新藏、宝暦8年(1758年) - 文化7年(1810年))とは江戸時代後期の船乗り(水主)である。 大黒屋光太夫とは同郷であり、漂流時には同じ神昌丸に乗り組んでいた。 == 生い立ちと漂流の経緯 == 宝暦8年(1758年)に亀山藩領伊勢国鈴鹿郡南若松村(現三重県鈴鹿市)に生まれる。 天明2年(1782年)12月13日、大黒屋光太夫(以下、「光太夫」と記す)を船頭とし、新蔵が乗り組んでいた神昌丸は乗組員15名、荷主1名、光太夫の飼い猫1匹を乗せて白子(現三重県鈴鹿市白子町)を出港し、江戸に向かった。しかし、12月14日に神昌丸は遠州灘で難破し、8か月後の天明3年(1783年)7月20日にアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着した。 アムチトカ島ではアリュート人に助けられ、ロシア人と共に暮らすようになる。新蔵は島でロシア人と暮らすうちにロシア語を習得し、一行の中で最もロシア語の習得が早かったとされている。しかし、アムチトカ島で神昌丸漂流民は次々と病死し、天明5年(1785年)1月の時点で一行は9人に減っていた。 天明7年(1787年)7月18日に9人と猫1匹はロシア人達とともに島を脱出し、ブリジニエ諸島、コマンドルスキー諸島を経て、8月23日にカムチャツカ半島のに到着した。9人は迎えに来たロシア軍の少佐と共にニジニカムチャツクに移動し、9人はロシア人の家に下宿した。食糧は現地の守備隊から配給されていたが、冬になり、オホーツクからの船舶輸送が滞るようになると深刻な食糧不足に襲われ、翌年の5月までに3名が病死した。 天明8年(1788年)6月15日、6人はニジニカムチャツクを離れ、カムチャツカ半島を横断してに着き、ここから船に乗り、オホーツクには8月30日に到着した。その後、6人はオホーツクを12月13日に発ち、寛政元年(1789年)2月9日にイルクーツクに到着した。なお、この途中で庄蔵は凍傷にかかり、片足を切断した。不自由な身体となった庄蔵はこのことが原因で、いち早く正教の洗礼を受け、名前をフョードル・スチェパーノヴィチ・シトニコフ()に改め、ロシアに帰化した。 イルクーツクではロシア人の鍛冶屋に下宿〔異説あり。当初は日本語学校に下宿した後、鍛冶屋に移ったとする説がある。『大黒屋光太夫―帝政ロシア漂流の物語』pp102-103〕した。なお、この年の春には延享2年(1745年)5月に千島列島の温禰古丹島に漂着した多賀丸漂流民の遺児たちと会い、日本語で交流した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新蔵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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