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ニコライ・ヤコヴレヴィチ・マル(ロシア語:、グルジア語: 、1865年1月6日(ユリウス暦で1864年12月25日)- 1934年12月20日)は、ロシア出身のグルジア人言語学者、民族学者。 「ヤフェト理論」と称する言語の単一起源説を主張し、1920年代から1930年代にかけて、ソビエト学会に大きな影響を与えた。 == 経歴 == マルは、現在のグルジアのクタイシで、スコットランド人の父と、グルジア人の母の間に生まれた。 ペテルブルク大学を卒業後、1891年から同大学の教員となり、1911年には東洋学部の学部長に就任した。 1909年からは、ロシア帝国科学アカデミーでの活動を始め、1909年3月7日に、科学アカデミーの歴史学・文献学部門の助手()となり、アジア諸民族の文学・歴史に関する研究を担当した。1912年1月14日には、非常勤研究員()、1912年7月1日には常勤研究員()に任命された。 この間、マルは、カフカースの古代遺跡の発掘に精力的に携わり、特にアルメニアの古都アニの発掘では、貴重な文書史料を発見するなど多くの文物をもたらした。また、アルメニア、グルジアに東洋学研究所を設立し、多くの研究者を育てるなど、カフカースの歴史学や考古学、民族学の最高権威だった。 その一方で、マルはカフカースの諸言語に関する関心を深め、1910年代からは、カフカース諸語が、セム・ハム諸語、バスク語と共通の祖語から派生したとする仮説を唱えるようになった。1924年にはさらに、世界の全ての言語が、''sal'', ''ber'', ''yon'', ''rosh''の4つの音素で構成される、単一の「原始言語」から発生したとする「ヤフェト理論」を展開した。マルによれば、言語は特定の発展段階に従い変化をするが、彼の「言語の古生物学」により、どの言語であっても、この4つの音素を見出すことができるという。 マルは、自説の補強のため、ヤフェト言語学をマルクス主義理論に接続し、現代の諸言語は共産主義社会の単一言語に収斂する過程にあるとする説を唱えた。マルの理論は、1920年代から1930年代までソ連邦内の少数民族語にラテン文字に基づく正書法を制定するキャンペーンの理論的基盤となった。 マルは、1930年にソビエト共産党に入党し、革命前からの科学アカデミー会員の中では、唯一の党員となった。彼の学説は、当時主流であった比較言語学の研究成果と一致しない荒唐無稽とも取れるものであったが、スターリンの支持を得て、ソビエト学会の支配的イデオロギーとなった。一方、マルの批判の対象となった比較言語学は「ブルジョワ言語学」として公的に否定された。 マルは1926年から1930年までレニングラードのロシア公立図書館の館長を務め、1921年からその死までの間、マルの名を冠して設立されたヤフェト研究所(現在のロシア科学アカデミー言語学研究所)の所長を務めた。1930年3月3日にはソビエト科学アカデミーの副総裁に任命された。マルは1934年にレニングラードで死去したが、その後も彼の学説は、ソ連邦の支配的イデオロギーとして君臨した。 1950年に、『プラウダ』紙上に、スターリンの論文「マルクス主義と言語学の諸問題()」が発表され、マルの理論は公的に否定されることになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ニコライ・マル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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