翻訳と辞書
Words near each other
・ ニコラウス5世 (対立教皇)
・ ニコラウス・アーノンクール
・ ニコラウス・エステルハージ
・ ニコラウス・オットー
・ ニコラウス・カバシラス
・ ニコラウス・カヴァシラス
・ ニコラウス・クザーヌス
・ ニコラウス・クザーヌス大学
・ ニコラウス・コペルニクス
・ ニコラウス・シュナイダー
ニコラウス・ジムロック
・ ニコラウス・ステノ
・ ニコラウス・フェッター
・ ニコラウス・フォン・アムスドルフ
・ ニコラウス・フォン・オルデンブルク
・ ニコラウス・フォン・ジャカン
・ ニコラウス・フォン・ツィンツェンドルフ
・ ニコラウス・フォン・ファルケンホルスト
・ ニコラウス・フォン・リヒテンシュタイン
・ ニコラウス・フォン・ルックナー


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ニコラウス・ジムロック : ウィキペディア日本語版
ニコラウス・ジムロック

ニコラウス・ジムロックNikolaus Simrock, 1751年8月23日 - 1832年6月12日)は、ドイツホルン奏者、音楽出版者。ボンのの邸宅のホルン奏者だった。ベートーヴェンの友人であり、音楽出版社ジムロックの創業者である。「1人の人、音楽家として大いに尊敬されて」1790年代を通してベートーヴェンと交流を持ち続け、ボン時代のベートーヴェンの「確かな証人」であると看做されている。
== 生涯 ==
ジムロックはマインツに生まれた。伍長の父を持つ彼は、16歳になるまでフランス軍の教会でホルンを吹いていた。ケルン選帝侯であったヘボンの宮廷管弦楽団での職を願い出て、規模が叶い1775年に「らっぱ吹き」として年に300フロリンの報酬で働き始めた。若きベートーヴェンは後に同じオーケストラで共に演奏するようになる。
選帝侯の邸宅にあっては、ジムロックは啓蒙思想の哲学者として指折りの存在であった。同僚のフランツ・アントン・リースクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェと同じく、彼もイルミナティの一組織であったMinervalkirche Stagiraに所属し、組織の活動停止後はボンでLesegesellschaftの創立メンバーとなっている。さらに1805年にボンに設立されたであるLes Frères courageuxの一員でもあった。
1793年、ジムロックはボンに音楽出版社のジムロックを設立する。初期に出版された作品にはベートーヴェンの『赤ずきんの主題による変奏曲』(WoO 66、1793年)や『ヴァルトシュタイン伯爵の主題による変奏曲』(WoO 67、1794年)がある〔。この出版社が成功した理由にはジムロックの商才もさることながら、選帝侯の時代が終わり1794年にボン並びにラインラントがフランス革命軍によりいち早く占領された際に、彼がフランス寄りの姿勢を取っていたことが功を奏したことが挙げられる。
19世紀のはじめには、ジムロックはヨーロッパでも屈指の音楽出版者へと成長していた。彼の指揮の下、ジムロック社はジムロックと個人的な面識もあったハイドンの初版譜、ベートーヴェンの13作品の初版を世に出したのであった〔〔。ジムロックはボンに没した。
ジムロックの死後に会社が出版を手掛けた著名な作曲家にはシューマン交響曲第3番など〔)、メンデルスゾーンオラトリオエリヤ』、『』など〔)らがいる。1870年に本社をボンからベルリンへと移転させたフリッツ・ジムロックは孫にあたり、とりわけブラームスの作品を刊行したことで知られる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ニコラウス・ジムロック」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.