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ニコラス・ヒリヤード : ウィキペディア日本語版
ニコラス・ヒリアード

ニコラス・ヒリアード(Nicholas Hilliard (1547年頃 - 1619年1月7日)) はイングランドの金銀細工師、ミニアチュール作家〔本稿では「ミニアチュール」は ''miniature'' の本来の意味である「彩色写本の挿絵」ではなく、主に宝飾品、装飾品、家具などの飾り絵として使われている「細密画・精密画」のことを指す〕。イングランド女王エリザベス1世、イングランド王ジェームズ1世の宮廷人の肖像ミニアチュール(工芸品や装飾品などに描かれた、人物を描いた細密画 (:en:Portrait miniature))の作者としてよく知られる。手がけた作品は小さな楕円形のミニアチュールがほとんどだが、10インチ程度の戸棚の飾り絵も描いており、エリザベス1世の半身像を描いた2枚のパネル絵(板絵)は有名である。
ヒリアードの作品は現在でもエリザベス朝を表す視覚的イメージの典型となっており、16世紀後半の他のヨーロッパ諸国の作品とはかなり異なったものといえる。ヒリアードの技術手法は当時のヨーロッパ諸国の主流に比べて非常に保守的なものであったが、作品の完成度は極めて高い。「エリザベス朝の代表的な肖像画家で、その小作品がシェークスピアの初期の戯曲にも影響を与えた唯一のイングランド人画家」として現代でも清新さと魅力が評価されている〔Waterhouse (1978), p.38〕。
== 前半生 ==

ヒリアードはイングランドのデヴォン州エクセター出身の、敬虔なプロテスタントであった金銀細工師で、1560年に州長官(名誉職の意味合いが強い (:en:High Sheriff))も務めたリチャード・ヒリアード(1519 - 1594年)と、ロンドンの金銀細工師ジョン・ウォールの娘ローレンスとの息子として生まれた〔Kinney (1983), pp.3-12 〕。ヒリアードは、アメリカのニューヘイブン植民地創立者の一人、セオフィラス・イートン(1590年 - 1657年)の最初の妻だったグレイス・ヒラー (Grace Hiller (Hilliar)) と非常に近い血縁者ではないかと考えられている〔。
ヒリアードは幼いころに、当時エクセスターで著名だったプロテスタントで、後にオクスフォード大学ボードリアン図書館の設立者となるトマス・ボードリ卿の父、ジョン・ボードリに随身していたと考えられている。プロテスタントのジョン・ボードリは、カトリックのメアリー・テューダーがメアリー1世としてイングランド王位に就いたときに国外追放処分を受けた。ジュネーヴジョン・ノックスが指導していたカルヴァン主義者の礼拝堂の1557年5月8日の記録に、11人のボードリ家の一員として当時10歳の子供だったヒリアードの名前が残されているのである。しかしながらカルヴァン主義はヒリアードにとって重要なものにはならず、国外生活で身に付けた流暢なフランス語が後に役立つことになった〔Strong (1975), pp.3-4〕。ジュネーヴでは、ヒリアードよりも2歳年長のトマス・ボードリが、優れた学者たちのもとで集中的な古典教育を続けていたが、ヒリアードが同等の教育を受けたかどうかははっきりしていない。
ヒリアードは1560年に当時13歳だった自身の肖像画を描いており〔Originally dated as 1550; date altered according to Edmond (1983)〕、18歳のときにスコットランド女王メアリーの肖像画を書いたといわれている〔1911 Britannica〕。
ヒリアードは、イングランド女王エリザベス1世の宝石職人でシティの出納係も務めていた金銀細工師ロバート・ブランドン (:en:Robert Brandon) に弟子入りした〔。イギリス人美術史家のロイ・ストロング卿 (:en:Roy Strong) は、この時期にフランドル出身の女流画家レヴィナ・テールリンクのもとで、ミニアチュールの技法も学んだのではないかと考えている〔。テールリンクは、伝統的なフランドル風写本装飾絵の最後期の優れた画家で、ハンス・ホルバインの死後イングランド王ヘンリー8世宮廷画家となったサイモン・ベニング (:en:Simon Bening) の娘である。7年間の徒弟期間を終えたヒリアードは1569年に、現在もシティに存在するギルドの金銀細工師名誉組合 (:en:Worshipful Company of Goldsmiths) の一員となり〔、弟のジョンとともに工房を開いた(他にも同じく金銀細工師の弟がおり、最若年の弟は聖職者となった〔)。1576年にはブランドンの娘アリス(1556年 - 1611年)と結婚し〔Reynolds (1971), pp. 11-18〕、7人の子供をもうけた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ニコラス・ヒリアード」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Nicholas Hilliard 」があります。



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