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ニコライ・アレクセーヴィチ・オストロフスキー(、1904年9月29日(ユリウス暦9月16日) - 1936年12月22日)はソビエト連邦の作家。全身の不随や失明に打ち勝って書かれた代表作『鋼鉄はいかに鍛えられたか』は、国内外から広く反響を集めた。レーニン勲章受章者。 == 前半生 == ニコライ・オストロフスキーは1904年9月29日(当時のユリウス暦では9月16日)に、ロシア帝国ヴォルィーニ県オストロフ郡ヴィリヤ村 (uk)(現在のウクライナ共和国リウネ州)で生まれた。父は軍の下士官であり、税官吏でもあった。 オストロフスキーは、その優れた才能のため通例より早くに入学し、1903年に9歳でそこを卒業するとすぐ家族でへ移り住んだ。1906年からは駅食堂の厨房や資材倉庫のオペレーター、発電所の火夫見習いなど様々な職に就きながら学校にも通い、1917年にはボリシェヴィキの活動家となった。1919年7月20日に赤軍へ志願し、8月9日にはコムソモールへ入団している。公式の伝記によると、1918年春にドイツ軍が故郷に進入した際はボリシェヴィキの地下組織の使い走りもしたという。 後にオストロフスキーの手足を奪うことになる病が発症したのは、この時期であるとみられる〔。最終的に彼は「進行性強直性関節炎、進行性関節骨化症」と診断されたが、現代の医学ではこれは遺伝性の強直性脊椎炎として知られる多発性関節炎であると推測されている。 軍ではの騎兵旅団や、時には(共産党直属の特殊部隊)にも所属したが、リヴォフで背中に榴散弾による重傷を負い1920年8月に復員した。しかし、この軍歴は彼の自伝では触れられていない。また、1920年から1921年にかけてオストロフスキーがでチェーカーのメンバーだったとする情報もある。 1921年にはキエフで技師見習いとして電気工学を学び、同時にコムソモールの秘書も務めた。翌年にはチフスを患ったが、体調不良をおしてキエフで鉄道の敷設工事に参加している。病から回復した後はポーランドとの国境地帯ので政治将校大隊に所属し、1924年にシェペトフカのコムソモール地区委員会事務局長を務めた後は、ベレズディウとイジャスラウの地域委員会の秘書となった。同年にオストロフスキーは共産党へ入党している。 1925年からオストロフスキーの体調は急激に悪化し、療養の甲斐なく1926年の暮れには寝たきりとなった。翌年8月にはチフスの合併症から視覚を失ったが、直後にの通信制に入学し、2年で修了している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ニコラーイ・オストロフスキー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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