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ミサンザイ古墳(みさんざいこふん)とは、日本の古墳のいくつかに用いられている名称。 ミサンザイとは貴人の墓を意味する『みささぎ(御陵)』が転訛したものといわれる。河内地方ではニサンザイとも呼ばれている。宮内庁により多くが歴代の天皇陵や陵墓参考地に治定・比定され、書陵部により管轄されている。 * 淡輪ニサンザイ古墳(たんのわ -) (大阪府泉南郡岬町淡輪) *: 別名「宇度墓(うどのはか)」。大阪府最南端で大阪湾に面した地にある。5世紀後半の造営と考えられている。宮内庁により第11代垂仁天皇皇子の五十瓊敷入彦命墓に治定されている。 * 岡ミサンザイ古墳 (大阪府藤井寺市) *: 別名「惠我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)」。古市古墳群に属する古墳で、5世紀後半の造営と考えられている。宮内庁により第14代仲哀天皇陵に治定されている。 * 上石津ミサンザイ古墳 (かみいしづ -)(大阪府堺市西区) *: 別名「百舌鳥耳原南陵」(もずのみみはらのみなみのみささぎ)」。百舌鳥古墳群に属する古墳で、5世紀前半の造営と考えられている。宮内庁により第17代履中天皇陵に治定されている。 * 土師ニサンザイ古墳 (はぜ -)(大阪府堺市百舌鳥西之町) *: 百舌鳥古墳群の南東端に位置する。第18代反正天皇古墳は、同古墳群の田出井山古墳に治定されているが、こちらが全国でも8位の規模の大きさがあり、これに比定する説がある。造営は5世紀後半とされ、宮内庁は「東百舌鳥陵墓参考地」に治定している。 * 鳥屋ミサンザイ古墳(奈良県橿原市鳥屋町) *: 別名「身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ)」。5世紀末から6世紀初頭の造営と考えられている。宮内庁により第28代宣化天皇陵に治定されている。 * 四条ミサンザイ古墳(奈良県橿原市畝傍町) *: 別名「畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのすみのみささぎ)」。考古名として「山本ミサンザイ古墳」「神武田古墳」などがある。元は神武田と呼ばれた場所にあった小さな塚を、幕末期からの調査によって初代神武天皇陵に比定した後、大正期にかけて現在の規模まで改修して陵墓としたもの。第2代綏靖天皇陵とともに、藤原京建設の際に削平された四条古墳群との関係性が指摘されている。 *:安本美典は、原初の神武陵を『古事記』の「御陵(みはか)は畝傍山の北の方の白檮の尾の上(かしのおのえ)にあり。」、『日本書紀』「畝傍山の東北の陵に葬りまつる。」を史料として畝傍山山麓にあったとし、さらに、『陵墓史』〔竹口英斎『陵墓史』寛政6年(1794年)。〕に、畝傍山の北東陵に「丸山」という名の地名があり、ここに「生玉神社」と呼ばれる祠があったこと、そばに「加志(かし)」という「橿」に通じる地名があったこと、またそばに「洞」という集落があって住人が神武陵の陵戸と伝わっている〔蒲生君平『山陵志』「洞村のことを相伝うるに、その民はもと神武陵の守戸なり。およそ守陵の戸は、みな賎種。もと罪隷をもって没入したる者は、郷にならばず」〕ことなどを根拠に、ここが真の神武陵だったと断定している。 == 参照 == 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミサンザイ古墳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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