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ニッポン放送の経営権問題 : ウィキペディア日本語版
ニッポン放送の経営権問題[にっぽんほうそうのけいえいけんもんだい]

ニッポン放送の経営権問題(にっぽんほうそうのけいえいけんもんだい)では、ニッポン放送の経営権の経緯について述べる。
==開局の経緯==
ニッポン放送は、当時の財界がマスコミ対策を意図して設立したラジオ局である。
財界の「青年将校」と呼ばれた日経連専務理事の鹿内信隆(以下、信隆)が1954年(昭和29年)の同局開局の中心となった。信隆は当初専務であったが、その後ニッポン放送株を掌握することで社長となる。
信隆がニッポン放送で採った施策は徹底した合理主義聴取率第一主義であった。ニッポン放送はラジオ局として最後発であり、開局時点で特定の新聞社との関係を持たなかったにもかかわらず最初からキー局として誕生した異色の局であった。このため先発局を急追すべく、とにかく「売れる」番組作りに腐心した。財界をバックに持つ利点を生かし、番組製作はナショナルスポンサーを付けたいわゆる「黒ネット」番組(スポンサー提供付番組)に特化して全国ネットの形成に成功。開業の翌年には黒字転換を果たし、業績・聴取率共に在京局のトップに躍り出た。
その後、テレビ免許申請を巡って各方面と競合するが、信隆は同じ財界系であった文化放送水野成夫社長と協議して、共同で免許を申請した。これが現在のフジテレビジョン(以下、フジテレビ)である。ニッポン放送は文化放送と共に、フジテレビへ資本と人材を送り込んで開局させた「フジテレビの生みの親」である。
このフジテレビ開局と前後して、東京進出後経営が悪化していた産業経済新聞社(以下、産経新聞社)を水野が引き受けることになり、信隆も役員に就任した。1968年、水野は産経新聞社の経営に失敗し、後に自身の体調が悪化。信隆は財界の要請を受け産経新聞社に乗り込み、水野に替わってフジサンケイグループの舵取りをすることとなる。産経新聞社は1974年、フジテレビを引受先とする増資を実施。さらに1976年東京急行電鉄と共に文化放送の株式を旺文社へ売却。
1978年には、ニッポン放送を引受先とするフジテレビの増資を行い、これで信隆は自らが筆頭株主となるニッポン放送を頂点としたグループ構造を完成させ、名実共にこのグループを掌握し支配した。
この間ニッポン放送の業績は好調で、従来の聴取率第一の利益追求主義を貫きながらも、テレビ時代に対応し次々と斬新な新企画を打ち出すチャレンジ精神も功を奏し、引き続き増収増益を続けた。経営陣にも鹿内イズムが浸透。組合も存在せず、他社や、同グループ内のフジテレビ・文化放送までもが労使関係に苦慮する中、独り労使協調路線を貫いた。また関連事業にも積極的に進出し、現在のポニーキャニオンやディノス(旧フジサンケイリビングサービス)を設立。これらは有力な子会社としてニッポン放送の屋台骨を支えた。このニッポン放送グループは信隆自慢の企業と言われていた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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