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『ニュースステーション』()は、1985年(昭和60年)10月7日から2004年(平成16年)3月26日まで、テレビ朝日とオフィス・トゥー・ワンが共同制作し、テレビ朝日系列(ANN)で月曜日~金曜日(祝日も含む)22時台に生放送されていた報道番組である。全4,795回の平均視聴率は、14.4%〔2007年4月5日スポーツニッポン「小宮悦子、2度目の離婚 10歳“姉さん婚”から12年--「女性セブン」報じる」〕。通称「Nステ(エヌステ)」、「NS(エヌエス)」、「Nステーション(エヌステーション、テレビ欄)」。 == 概要 == テレビ朝日が平日23時台に放送していた『ANNニュースファイナル』『ANNスポーツニュース』に代わり、ドラマやバラエティ番組を放送していた平日22時台に新設したニュース番組である。テレビ朝日の本社移転(アークヒルズ)と同時に開始された。構想段階から広告代理店である電通が深く関与した。久米宏も構想の段階で起用が決まり会議に参加しており、番組の準備などのため、久米は1985年4月までに『おしゃれ』(日本テレビ系列)以外のレギュラー番組を降板した〔嶌信彦『メディア 影の権力者たち』1995年4月講談社 ISBN 4062076284〕。 当時としては前例のない番組であり、開始第一週目の週平均の視聴率は8.68%と低視聴率に悩んだ〔読売新聞夕刊 1985年10月16日。〕。1986年2月のエドゥサ革命以降は、安定して20%前後の高い視聴率を誇り、テレビ朝日の看板番組となった〔しかし、番組開始に伴う番組編成の改編で、平日夜22時台に放送されていた番組を中心に放送時間が変更され、これに伴う視聴者離れで『特捜最前線』、間接的だが番組編成上の圧力で『必殺シリーズ』が終了に追い込まれた。これらの改編に加え、『アフタヌーンショー』の「やらせリンチ事件」が影響してか、1980年代後半から1990年代はテレビ朝日ではヒット番組に恵まれず視聴率において、終始4位(民放キー局、NHK総合テレビ除く)だった。そのため、「テレ朝は『ドラえもん』と『ニュースステーション』しか誇れる番組が無い」と揶揄されたこともあった。〕。関東地方での視聴率20%超えは、245回〔。関東地方より先に関西地方(朝日放送(ABC))で視聴率を獲得した。 「中学生でもわかるニュース」をコンセプトとして、政治や経済などのニュースにおける難解な用語や展開などを、フリップや地図、模型、実物、政治家人形、積木などを使い、わかりやすく伝える工夫を凝らした〔これを見ていた当時NHK記者の池上彰がこれを応用し、1994年4月に『週刊こどもニュース』をスタートさせた。〕。これで徐々に視聴率を獲得した。初期には手書き・手作りといったアナログ感を重視していたが、コンピュータグラフィックスについても最新技術を積極的に導入している。安竹宮で争われた1987年自民党総裁選挙では全派閥を積木で表現し、積木を積み立てて今後を予測した。1990年代初めには民間気象情報会社のウェザーニューズの協力で天気予報に3DCGを使い、イラク戦争では地図に「CADシステム」を用い、後のGoogle Earthのように直感的な操作で地図の拡大・縮小を行った。2002年あたりからはクロマキー処理を行わないリアルタイムCGも多用された。この他、BGM・ナレーション・テロップなどをワイドショーのように使う表現・演出手法は、しばしばニュースを過度にセンセーショナルなものに見せた。 また久米が「個人的意見」を言うことで従来の番組や新聞との差別化を図った。久米のコメントや番組の基本姿勢は、久米がマスコミ人として持っている反権力・反戦争の信条を色濃く反映したものだったため、広く人気を博した反面、自民党筋や保守派などから偏向しているとの根強い批判・反発も呼んだ。 従来、外部発注が常識となっていた民放テレビ局にあっても報道番組は聖域とされ、番組制作が外部に委託されることがなかった中で、オフィス・トゥー・ワンという外部の制作プロダクション(久米の所属事務所でもある)を導入してニュース番組を制作した。 音声は当初モノラル放送であったが、1993年4月19日〔朝日新聞縮刷版の番組表を確認。〕 からステレオ放送になった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ニュースステーション」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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