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ニューハンプシャー州の歴史(ニューハンプシャーしゅうのれきし、英:History of New Hampshire)は、北アメリカ、現在のアメリカ合衆国ニューハンプシャー州にヨーロッパ人が到来してからの歴史を扱う。ニューハンプシャー州はニューイングランドの一部として成長し、アメリカ合衆国が誕生した時の13植民地の一つだった。 == 設立 1600年-1775年 == ニューハンプシャー州となった植民地は、1622年にイギリスの枢密院からジョン・メイソン船長とフェルディナンド・ゲルゲス卿に与えられたニューイングランドの土地特許に基づいて設立された。植民地の名前はイギリスのハンプシャーに因んでニューハンプシャー植民地と名付けられた。最初に開拓者が入ったのは、1623年、ライ(今日のポーツマス近く)のオディオーンズ・ポイントであり、デイビッド・トンプソンが指揮するイングランドの漁師の一団であった。〔 あまり大きく伝えられていないが、ニューハンプシャーの設立者はデイビッド・トンプソンである(ある資料ではトムソン)。トンプソンの父親がプリマスのフェルディナンド・ゲルゲス卿に仕えていた。ゲルゲス卿は権勢のあったイギリスの貴族であり、ジェームズタウンとプリマスの最初の2つのアメリカ「プランテーション」を造ることについて、イングランド王ジェームズ1世から権利を得ていた。〕これはプリマスにピルグリム・ファーザーズが上陸した丁度3年後のことであった。開拓者達はフレイクヒルに砦、領主館やその他の建物、そのうちの幾つかは漁のためのものを建てた。この開拓地はパナウェイ・プランテーションと呼ばれた。最初のニューハンプシャー生まれ、ジョン・トンプソンはここで生まれた。〔このことは初期の歴史家が言っていることである。しかし、ジョン・トンプソンは1619年にイングランドのプリマス、アンドリュー教区で洗礼を受けている。最も可能性の強い最初のニューハンプシャー生まれは、1625年にドーバーで生まれたウィリアム・ヒルトンの娘アグネスである。〕 デイビッド・トンプソンはメイソンによって派遣されていたが、数年後にエドワード・ヒルトンとウィリアム・ヒルトンが加わった。3人はドーバーの近辺を探索し、そこをノーザムと名付けた。メイソンは設立した植民地を見ることもなく1635年に死んだ。パナウェイの開拓者達は後にポーツマス地域に移住し、1629年に新しく創設されたラコニア会社の派遣したニール船長の指導する集団と合流した。新しい開拓地はストロベリー・バンクと名付けられた。1638年、ジョン・ホイールライトがエクセターの開拓地を造った。 1631年、トマス・ウィギン船長がアッパー・プランテーション(現在のドーバー、ダーラムおよびストラットハム)の初代総督となった。すべての町が1639年に合併することに合意したが、一方でマサチューセッツ湾植民地がこの地域の領有権を主張していた。1641年マサチューセッツとの合意が形成され、その管轄に入ることになった。町は自治が許された。1653年、ストロベリー・バンクはマサチューセッツ議会に対してその名前をポーツマスに変える請願を行い認められた。 マサチューセッツと独立したニューハンプシャーの人々との関係は、意見が分かれ、また内容が薄かった。1679年、イングランド王が2つの植民地を分離し、アッパー・プランテーションはジョン・カットを総督とする「王室領」となった。2つの植民地は1686年に合併し、1691年には再度分かれた。「王室領」は1698年まで継続し、もう一度ジョセフ・ダドリーを総督とするマサチューセッツの管轄下に入った。さらに1741年、ニューハンプシャーは王室領に戻り、総督のベニング・ウェントワースは1741年から1766年まで務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ニューハンプシャー州の歴史」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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