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ネパール王族殺害事件(ネパールおうぞくさつがいじけん、英語:Nepalese royal massacre)は、2001年6月1日にネパールの首都カトマンズ、ナラヤンヒティ王宮で発生した事件。ディペンドラ王太子(事件直後、危篤状態のまま名目上は国王に即位し、その3日後に死亡)が父・ビレンドラ国王ら多数の王族を殺害したとされる事件である。現場名称を取ったナラヤンヒティ王宮事件とも呼ばれる。 ただし、後述の事件に関する不自然さ、矛盾などからディペンドラの犯行を疑う説もある。また、事件後に即位したビレンドラの弟ギャネンドラの動向などから、彼が行ったクーデターとする説もある。だが、いずれの説も決定的な証拠がなく、その真相は現在に至るまで不明なままである。 == 公式発表による事件のあらまし == ビレンドラ国王の末弟・ディレンドラ王子(この事件で銃撃され、3日後に死亡)の娘婿で、現場に居た国軍のシャヒ大佐の証言を元として、6月14日夜に政府の調査委員会が国王に提出・発表した〔佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.679〕。 かねてより、ディペンドラ王太子は結婚(希望)相手であったデブヤニ・ラナについて父である国王や母・アイシュワリヤ王妃らに反対されていた。特に王妃はラナ家と敵対関係にある家系の出身であったため、強く反対していたという。6月1日に開かれた王族の晩餐会(毎月一回定例で開催されており、この事件によって初めてその存在が明らかになったという)でこの問題が話し合われ、結婚に反対する国王と王妃は、王太子の王位継承権を剥奪するとまで発言した。部屋に戻った王太子は泥酔状態で再び会場に現れると銃を乱射、自身も直後に銃で自殺を図った。この事件により、ビレンドラ国王夫妻、第二王子ニーラージャン、王女シュルティ、王の姉シャンティとシャラダ、シャラダの夫、王弟ディレンドラ、王のいとこジャヤンティーの9人が射殺された〔佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.678〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ネパール王族殺害事件」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Nepalese royal massacre 」があります。 スポンサード リンク
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