|
ネリー・メルバ(Nellie Melba、1861年5月19日 - 1931年2月23日)は、当時イギリス領であったオーストラリア出身のオペラ歌手、ソプラノ。ヘレン・"ネリー"・ポーター・ミッチェル(Helen "Nellie" Porter Mitchell)として生まれ、後に勲爵位を与えられてからは、尊称(デイム)を付してデイム・ネリー・メルバ(Dame Nellie Melba, GBE)と呼ばれた。メルバは、ヴィクトリア朝後期から20世紀はじめにかけて、最も有名な歌手のひとりであった。また、クラシック音楽の音楽家として国際的な名声を得た、最初のオーストラリア人であった。 メルバはメルボルンで声楽を学び、地元オーストラリアでそこそこの成功を収めた。その後、結婚したが、すぐに離婚し、歌手としての活躍の場を求めてヨーロッパに渡った。1886年、ロンドンで仕事を得られなかったメルバは、パリに移って声楽を学び直し、やがてパリやブリュッセルで大成功を収めた。ロンドンに戻ったメルバは、1888年から、コヴェント・ガーデンのロイヤル・オペラ・ハウスで主演のリリック・ソプラノを務めるようになった。程なくして、メルバは、パリでも、ヨーロッパ各地でも更に大きく成功し、また後にはニューヨークのメトロポリタン・オペラにも1893年にデビューし、大成功を収めた。メルバのレパートリーは狭く、キャリアを通して25ほどの役しか演じなかったし、特に頻繁に演じたのは10役に過ぎなかった。オペラでも、特にフランスやイタリアの作品を得意とし、ドイツ・オペラはほとんど歌わなかった。 第一次世界大戦のあいだ、メルバは戦争関係のチャリティ活動を行ない巨額の資金を集めた。20世紀になってからは、母国オーストラリアにもしばしば帰国して、オペラやコンサートに出演し、メルボルン近郊に家を建てた。メルバは、メルボルンの音楽院(Melbourne Conservatorium)において、後進の指導にも活躍した。メルバは、死の直前の数か月にも歌い続け、「お別れ」の出演機会は伝説的な回数になった。彼女がオーストラリアで死去した際には、英語圏全体でニュースとなり、葬儀は大きな国民的行事となった。 == 生涯 == === 生い立ち === メルバは、ヴィクトリア植民地(現在のヴィクトリア州)リッチモンド(Richmond)で、父デイヴィッド・ミッチェルとその妻である母イザベラ(Isabella)、旧姓ドーン(Dorn)の間に最初の子どもとして生まれ、後に弟妹が次々と生まれて7人兄弟の長子となった〔Steane, J. B. "Melba, Dame Nellie (1861–1931)", ''Oxford Dictionary of National Biography'', Oxford University Press, 2004; online edition, January 2011, accessed 24 May 2011. 〕。父はスコットランド人で、1852年にオーストラリアへ移住し、当地で建設業者として成功しつつあった。メルバは、地元の寄宿学校で教育を受け、メルボルンのプレスビテリアン・レディース・カレッジ(Presbyterian Ladies' College)に進んだ〔Davidson, Jim. "Melba, Dame Nellie (1861–1931)", ''Australian Dictionary of Biography'', online edition, Australian National University, 2006, accessed 6 June 2010〕。メルバは、マヌエル・ガルシア(Manuel García)の弟子だったメアリ・エレン・クリスチャン(Mary Ellen Christian)や、メルボルンで音楽教師として尊敬を集めていたイタリア人テノール、ピエトロ・チェッチ(Pietro Cecchi)に声楽を習った〔。十代の頃のメルバは、メルボルン市内や近郊のアマチュア・コンサートに歌手として出演し続けながら、教会でのオルガン演奏も行なっていた。メルバの父は、彼女が音楽を勉強することは奨励したが、歌手を職業とすることには強く反対した〔Sadauskas, Andrew. "Melba Bashed by Cowardly Husband", ''Australian Stamps Professional'', accessed 23 May 2011〕。1880年、母が急逝した後、メルバはクイーンズランドに移った〔。 1882年12月、メルバは、サー・アンドリュー・アームストロング(Sir Andrew Armstrong)の一番下の息子であったチャールズ・ネスビット・フレデリック・アームストロング(Charles Nesbitt Frederick Armstrong、1858年 - 1948年)と結婚した。夫妻の間には、ひとり息子ジョージ(George)が、1883年に生まれた〔"Divorce of Madame Melba", ''The Morning Bulletin'', 14 April 1900, p. 5〕。しかし、この結婚は長続きしなかった。チャールズは一度ならず妻メルバを殴打したと伝えられている〔。結婚後1年あまりで2人は離婚し〔、メルバは歌手として生きることを決意してメルボルンに戻り、プロの声楽家として1884年にコンサートにデビューした〔。地元での成功を得たメルバは、機会を求めてロンドンに渡った。。1886年、プリンシズ・ホール(Princes' Hall)でのデビューは、ほとんど反響がなく、サー・アーサー・サリヴァン、カール・ローザ、オーガスタス・ハリスらに売り込みをしたものの仕事を得ることはできなかった〔〔Scott, 1977, p. 28〕。そこでメルバは,高名な声楽教師であった マチルデ・マルケージの下で学ぶべく、パリへ移った。マルケージはたちまちこの若い歌手の素質を見抜き、「遂にスターを見つけたわ!」と叫んだという。メルバはめきめきと実力を伸ばし、この年12月にマルケージの家で行なわれた''matinée musicale''において、アンブロワーズ・トマの『ハムレット』からの曲「Mad Scene」を、作曲者トマが臨席する場で歌うことを許された〔。 若きメルバの才能は目覚ましく、マルケージの下で1年足らず学んだ後、興行主モーリス・ストラコシュ(Maurice Strakosch)から10年契約が申し込まれた。メルバがこの契約に署名した後になってから、ブリュッセルのモネ劇場(ベルギー王立歌劇場)から、より条件の良い話が舞い込んだ。しかし、ストラコシュは契約解除に応じなかった。メルバは絶望に打ちひしがれたが、この問題はストラコシュの急死によって雲散霧消した〔"Melodies and Memories", ''The Times Literary Supplement'', 5 November 1925, p. 738〕。1887年10月12日、メルバはモネ劇場の『リゴレット』ジルダ役で、オペラ・デビューを果たした〔。批評家ハーマン・クレイン(Herman Klein)は、メルバのジルダについて「最も強烈な部類の、たちまちの大成功であり…その数日後には、『椿姫』のヴィオレッタ役がこれに続いた」と評した〔。このときから、マルケージの助言を受け入れたメルバは、出身地メルボルン (Melbourne) の名を縮めた芸名「メルバ (Melba)」を名乗るようになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ネリー・メルバ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|