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ノルマルム広場強盗事件(ノルマルムひろばごうとうじけん、、)は、ストックホルム症候群という語句の起源となったことで知られる銀行強盗および人質事件。この事件は、1973年にスウェーデンのストックホルムにあるノルマルム広場 (Norrmalmstorg) で発生した。スウェーデンの犯罪事件としては、テレビで生中継された最初の事例となった〔40 år sedan Norrmalmstorgs dramat 〕。 == 事件の概要 == 1973年8月23日、刑務所から仮釈放中だったヤン=エリック・オルソン (Jan-Erik Olsson) は、サブマシンガンで武装し、ストックホルム中心部のノルマルムス広場にあったクレジットバンケン(信用銀行:Kreditbanken)に押し入った。オルソンは、事件直後に駆けつけた警官に発砲し、ひとりの手に軽傷を負わせた〔 - ヨミダス歴史館にて閲覧:記事の見出しに「脱獄囚」とあるのは、仮釈放中の誤り。〕。オルソンは当初は9人の銀行員を人質に取り、その後の警察との交渉でうち同日のうちに5人を解放したが、女性3人、男性1人の銀行員を人質として拘束して、銀行内に立てこもった〔 - ヨミダス歴史館にて閲覧〕。 オルソンは、300万クローネの現金と、オルソンの友人で1966年に起こした銀行強盗の罪で服役中だったクラーク・オロフソン (Clark Olofsson) の解放、そして逃走を認めることを要求した〔。オロフソンは、16歳の時から、武装強盗や暴行など何度も犯罪に関わっていた〔40 år sedan Norrmalmstorgs dramat 〕、「スウェーデン史上、最も有名な銀行強盗」とされる人物である〔。警察はこの要求を呑み、現金を提供し、オロフソンをオルソンに合流させた〔。また、交渉の結果、逃走用の車が提供されることとなったが、逃走しようとするとしても人質を連れて行くことは許さないということになった。 8月25日、警察は犯人たちが人質たちとともに立てこもっていた金庫室を封鎖し、食料の提供要求を拒んだ〔 - ヨミダス歴史館にて閲覧〕。 8月27日、警察は犯人や人質たちのいる金庫室の天井に穴を開けて、武器を捨てて投降しなければ「最後の手段を取る」などと、説得を試みた〔 - ヨミダス歴史館にて閲覧〕。オロフソンはこの穴に向かって2度発砲し、2回目のときにひとりの警官の手と顔を負傷させた〔。同日、オルソンはオロフ・パルメ首相に電話し、安全に脱出させなければ人質を即座に殺すと脅迫した〔 - ヨミダス歴史館にて閲覧〕。翌日、再び首相に電話が入った。この電話は人質のクリスティン・エンマーク (Kristin Enmark) からで、首相の強硬な姿勢に自分は不満であり、犯人たちとともに人質たちを現場から去らせてほしいと訴えるものだった〔。人質たちは、オルソンに脅迫されながらも、警察に対して敵対することも、人質同士の間で敵対することもなかった〔。 8月28日夜、警察は催涙ガスを使用する強硬策をとり、ガスの注入に気づいた犯人ふたりは自ら金庫外に出てきたところを逮捕された〔 - ヨミダス歴史館にて閲覧〕。人質は誰も、大きな負傷をしなかった〔。事件解決直後には、パルメ首相も現場へ駆けつけた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ノルマルム広場強盗事件」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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