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ノン・スオン(Non Suon、生年不明 - 1976年)は、カンボジアの革命家、政治家。クメール人民革命党(後の共産党)中央委員。反ロン・ノル闘争時は第25地区長を務め、民主カンプチア成立後は農業委員長(農相)を務めた。1976年頃に粛清。 別名、チェイ(Chey)。 == 経歴 == スオンはカンポット地方出身の農民で〔ショート(2008年)、172ページ。〕、1946年以降にカンボジア国内で抗仏運動を本格的に始めた〔山田(2004年)、20ページ。〕。フランスからの独立闘争時に南西部書記に就任〔。 フランスが撤退した後は、1954年末に結成された人民革命党の準合法組織「プラチェアチョン」(人民派)で活動し、ケオ・メアスの補佐を務めた〔ショート(2008年)、174-176ページ。〕。 1956年にクメール人民革命党が都市委員会を設置したが、スオンもそのメンバーであったと推測されている〔山田(2004年)、26ページ。〕。1960年の党大会では、党中央委員に選出された名簿の第9位に「ライ・トン」の名があり、これがノン・スオンであると見られている〔イエン・サリの証言による。ショート(2008年)、214ページ、原注4。〕。 しかしシハヌーク政権下で左翼は弾圧され、1962年6月の選挙を前にして「プラチアチョン」メンバーは一斉に検挙された。1962年1月12日にスオンも逮捕され〔ショート(2008年)、208ページ。〕、シハヌークの命令により、軍事法廷で仲間とともに死刑宣告を受ける〔ショート(2008年)、209ページ。〕。しかし、翌1962年2月には終身刑に減刑された〔ショート(2008年)、210ページ。〕。 1963年2月末の党大会において、党中央委員から落選した〔。 その後1970年、ロン・ノル将軍のクーデターが起こると、特赦で釈放され〔ショート(2008年)、334ページ。〕、そのままプノンペン近郊で解放勢力に加わった〔チャンドラー(2002年)、123ページ。〕。 1971年1月半ばの党中央委員会において特別地域第25地区長に任命される〔。しかし、同年9月までに終了した第3回党大会においては、中央委員には選出されなかった〔ショート(2008年)、335-336ページ。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ノン・スオン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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