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ノン・ドゥック・マイン(, 漢字: 儂德孟〔ノン(儂)は中国南部に住居するチワン族の大姓であり、ベトナムのチワン系住民(タイー人、ヌン人)においてもこれを姓とする人々は多い。〕, 1940年9月11日 - )は、ベトナムの政治家。第4代ベトナム社会主義共和国国会議長を務めた後、第6代ベトナム共産党中央委員会書記長として同国の最高指導者の地位にあった。 == 経歴 == ベトナム北部のバックタイ省(現在のバックカン省)に生まれる。チワン・タイ系の少数民族タイー族の出身である。ハノイ中央農林中級学校を卒業後、故郷のバックタイ省の林業事務所に勤務する。1963年7月、ベトナム労働党(現在のベトナム共産党)に入党。1966年から1971年にかけてソビエト連邦のレニングラード林業学院に留学。帰国後、バックタイ省の林業事務所監査部次長やフールオン営林署長を務める。その後、1974年から1976年にかけてグエン・アイ・クォック党高級学校で研修を受ける。 1976年7月2日、南北ベトナムが統一され、ベトナム社会主義共和国が建国される。建国後、マインはベトナム共産党のバックタイ省委員会執行委員や同省人民委員会(省政府)副委員長などを歴任、1984年よりバックタイ省人民委員会委員長兼同省党委副書記を務め、1986年11月にはバックタイ省党委書記となる(1989年2月まで)。1986年12月の第6回党大会で中央委員候補となり、1989年3月の第6期党中央委員会第6回総会で中央委員に昇格。同年8月には党中央民族委員長となり、11月の第8期国会の補選で国会議員に選出される。国会では民族評議会副委員長を務めた。1990年3月の中央委員会第8回総会では、複数政党制を主張する急進改革派のチャン・スアン・バク政治局員兼書記局員を激しく批判し、全役職からの解任に追い込んだ〔ティン(2002年)、312-313ページ〕。 1991年6月の第7回党大会で中央委員に再任され、政治局員に選出された。1992年9月23日、第9期国会において国会議長に就任。1996年6月の第8回党大会で中央委員および政治局員に再任。1997年9月、第10期国会が招集され、国会議長に再選される。同年12月、第8期党中央委員会第4回総会において政治局常務委員〔政治局常務委員会は第8回党大会で設置され、第9回で廃止された。〕に昇格し、党内序列第4位となった。 2001年4月22日、第9回党大会において、ノン・ドゥック・マインは党中央委員会書記長に選出され、党内序列第1位となった。歴代の書記長がキン族出身であったのに対し、初の少数民族出身である。共産党が国家を指導するというベトナムの政治構造上、書記長はベトナムの最高指導者となる。マインは国家主席のチャン・ドゥック・ルオンや首相のファン・ヴァン・カイとともにトロイカ体制を敷いた。 国会議長としての手腕がテレビを通じて国民に広く知れ渡り、早くから書記長候補と目されていた〔寺本(2002年)、30-31ページ〕マインは、書記長就任後、経済発展を推進する一方、党官僚の汚職・腐敗の撲滅や、不満分子・反体制派の取り締まりに臨んだ。しかし、2006年の第10回党大会の直前に、PMU18事件とよばれる、交通・運輸省を舞台とした大規模な汚職事件〔交通・運輸省PMU(第18プロジェクト管理局)を中心とする汚職事件。当時の管理局長や交通・運輸省次官が公金を私的に流用していたのだが、その公金は日本・オーストラリア・世界銀行・ヨーロッパ連合からのODAの資金であった。〕が発覚し、同省に勤務するマインの娘婿の関与も取りざたされた(結局、娘婿は直接関与はしていないとして逮捕は免れた)ことから、4月の第10回党大会では責任を問われ、中央委員会における書記長選挙では、対立候補としてグエン・ミン・チェット政治局員の擁立が模索されるなど、再選が危ぶまれた。結局マインは書記長に再選され、新たに国家主席となったグエン・ミン・チェットや首相のグエン・タン・ズンとトロイカ体制を構築した。しかし、2期目のマインは政治的威信が低下し、求心力を失って単なるお飾りになったと指摘する研究者もいる〔坪井(2008年)、93ページ〕。 2011年1月に開催された第11回党大会において、民間企業家の入党を認める政治報告を行ったマインは、党大会最終日の1月19日、書記長を退任した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ノン・ドゥック・マイン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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