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ハイダル・アームリー
ハイダル・アームリーは、14世紀のシーア派の思想家・哲学者である。1319年頃に生まれ1385年以降に亡くなった。イブン・アラビーの思想をシーア派の側面から批判するとともにシーア派的グノーシス主義に統合し、14世紀にイスファハーン学派を誕生させた。イブン・アラビーの存在一性論を深化させ、特徴的な終末論を唱えた。今日まで続くシーア派哲学の基礎を築いたアームリーの思想的努力は、欧米や日本へはの先駆的な研究により紹介された。 ==生涯==
ハイダル・アームリーは、カスピ海南岸に位置するタバリスターンのに伝わるフサイン系の聖裔家の一員であった。当時のアームルはシーア派ムスリムが多く居住していたことで知られる。非常に幼いころからマドラサでイスラーム法学(フィクフ)を学んだが、法学のみならずイマーム主義のシーア派思想、神秘思想の探求にも没頭した。ハイダルは最初アームルで学び、のちにアームルから少し東へ行ったところにあるアスタラーバード(現ゴルガーン)や、イラン高原中央部のイスファハーンでも学んだのち、故郷のアームルに戻った〔『イラン百科事典』アーモリー,サイエド・バハーウッディーンの項、コールベルク執筆。〕。アームルでは、当時タバリスターンを治めていたのの信頼を受けて重用され、にまでなった〔。しかしながら、ハサン二世との緊密な関係を築き上げたその直後、ハイダルは信仰上の危機を経験する。著書『道程の内なる秘密』によると彼は自分が崩壊していくような気持ちになり、自分をすっかり神にささげることができる場所へ移る必要があると感じたという。そこでハイダルは、神秘思想をより深く探求していくために宮廷での地位を捨てた。なお、ハサン二世は、ハイダルが宮廷を去った直後に、身内の裏切りにより暗殺された〔。 ハイダルは宮廷を去って、ティヒラーンの村でヌールッディーン・ティヒラーニーという名のグノーシス主義の苦行僧をシャイフとして、スーフィーの修業を始めた。師の下で修業を始めて30日足らずで〔、というスーフィーがまとうマントを身にまとって、聖地マッカに向けて巡礼(ハッジ)の旅に出発した〔。途中、に立ち寄りつつ、エルサレム、マディーナも目指した。しかし、マディーナで病気になり、そこを去らねばならなくなった〔。残りの人生はイラクで過ごし、バグダードで当時シーア派の最高のウラマーであった、ファフルッディーン・ムハンマド・アル=ハサンとナーシルッディーン・アル=カーシャーニー・アル=ヒッリーの二人を含む大学者の中で研究をした。そして、バグダードの南にある町、ナジャフのシーア派のモスクに、30年間にわたって住み、1385年頃まで生きていたということが文書に残されている。シーア派イマームの伝承をまとめた本が遺作となった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハイダル・アームリー」の詳細全文を読む
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