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カイドゥ(Qaidu, Khaidu, ? - 1301年)は、13世紀の後半に中央アジアに独立王国を建設したモンゴル皇族。チンギス・ハーンの三男オゴデイの五男(、転写: )の子。『集史』などのペルシア語史料では قايدو Qāydū 、漢語史料では海都と書かれる。現代モンゴル語の発音に基づいてハイドゥあるいはハイドともいう。 30年以上にわたってモンゴル皇帝(大ハーン)、クビライ率いる大元朝と対立し、中央アジア以西のモンゴル諸勢力のモンゴル皇帝権力からの分離独立を決定づけた。このカイドゥの一連の行動は一般に「カイドゥの乱」と呼ばれる。 == 生涯 == === クビライへの反逆 === カイドゥの属するオゴデイ家一門は、モンゴル帝国の第3代皇帝であったグユクが1248年に没すると、トルイ家に帝位を奪われ、ジュンガリア地方(現在の中国新疆ウイグル自治区北部)エミル川流域の所領(ウルス)は没収されなかったものの、有力者が追放されるなど厳しい圧迫を加えられた。これに不満をもったカイドゥは、1259年に第4代皇帝モンケが急死してその弟のクビライとアリクブケが後継者争い(モンゴル帝国帝位継承戦争)を始めるとアリクブケに与し、この内紛がアリクブケの敗北に終わると、入朝して帰順するよう要求するクビライの求めを拒否した。この混乱の間にカイドゥはオゴデイ家内での権力を掌握し、1266年に西北モンゴリアにいたクビライ配下の軍を攻撃して反抗の意図を明確にした。 クビライは、新当主ムバーラク・シャーを母后オルガナが摂政として補佐するチャガタイ家の勢力を吸収して西方の諸王家を掌握することを狙い、ムバーラク・シャーの叔父イェスン・トアの次男であったバラクをチャガタイ家の本領イリに派遣した。しかし、バラクはクビライから飽くまで共同統治、せいぜい補佐を命じられていたにもかかわらず、ムバーラク・シャーが年少であるのを理由に力ずくで当主位を奪い、後見すると称して服属させてしまった。こうしてバラクはイリ方面のチャガタイ家の勢力を統合すると、隣接するカイドゥの勢力を狙い、西進するようになった。 かくして、カイドゥは西南で境を接するチャガタイ家のウルス(チャガタイ・ハン国)で権力を掌握したバラクとマー・ワラー・アンナフル(現在のウズベキスタン)にある肥沃なモンゴル皇帝直轄領の支配権横領をめぐって争ったが、1269年に至り、バラクおよび西北ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の代表者と会盟し、マー・ワラー・アンナフル領を両家で分割するとともに、共同してクビライへ反旗を翻すことを決した。通説ではこの時、カイドゥはクビライに対抗するモンゴル皇帝に選出されたとされてきたが、史料上では確認できず、現在は史実とは考えられていない。実際カイドゥは自勢力下の王族や臣下からはモンゴル皇帝、つまりカアン(Qa'an; قاآنQā'ān)どころかハン(Qan>χan; خان khān)とも呼ばれてはおらず、もっぱらカイドゥ・アカ(Qaidu Aqa> قايدو آقا Qāydū Āqā)と呼ばれていた(『集史』アバカ・ハン紀など)。アカ(Aqa)とはモンゴル語で「兄さん」・「兄貴」の意味で、特にモンゴル系の諸部族やチンギス・カン家などで、一門を取りまとめる年長者や統率者に対して用いた敬称である(バラクもイルハン朝への遠征の時に、自軍の将兵から「バラク・アカ」と呼ばれている)。ただし、『五族譜』(シュアビ・パンジュガーナ)やミールホーンドの『清浄なる庭園』(ラウダト・アッサファー)など後代の資料では「カイドゥ・ハン」(Qaydū Khān قيدو خان) と書かれている場合もある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カイドゥ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kaidu 」があります。 スポンサード リンク
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