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ヘイニー・マナシュ(Henry Emmett "Heinie" Manush, 1901年7月20日 - 1971年5月12日) は、1920 - 1930年代にアメリカ・メジャーリーグで活躍した野球選手。主なポジションは左翼手。アラバマ州生まれ。左投げ左打ち。シーズン打率.333以上を7度記録するなど、安打製造機として名をはせた。愛称の「ヘイニー」(Heinie) には『ドイツ人』という意味もある。 == 経歴 == 1921年にデトロイト・タイガースと契約、当時フィラデルフィア・アスレチックスの三塁手であった、兄フランク・マナシュの後を追うように1923年にタイガースからメジャーデビューする。1年目から左翼のレギュラーとなり、打つ方でも打率.334をマークする。1925年からは、当時現役生活も晩年を迎えていたタイ・カッブの後釜として、センターを守ることが多くなっていた。1926年に打率.378で首位打者を獲得。この年はベーブ・ルースに次ぐ出塁率・長打率を記録する活躍を見せた。 1928年にセントルイス・ブラウンズにトレードされ、同年リーグ最多の241安打、二塁打47本を記録する。打率も.378としたが、首位打者となったグース・ゴスリンにわずか1厘及ばなかった。また同じ年のMVP投票では、ミッキー・カクレーンについで次点となった。 1930年、シーズン中にブラウンズからワシントン・セネタースにトレードされる。セネタースには5年半在籍し、1933年に2度目のリーグ最多安打(221安打)をはじめ、33試合連続安打やリーグ最多三塁打(17本)を記録する活躍をし、セネタースをワールドシリーズ出場に導いた。 しかし自身最初で最後となった1933年のワールドシリーズで、マナシュは球史に残るような有名な退場劇を演じる。第4戦の6回裏、アウトの判定にマナシュは一塁塁審に抗議し、何を思ったか塁審の蝶ネクタイをつまんで引っ張り、ゴムが伸びきったところでパチンと手を離した。もちろん彼は退場になった。 1936年からはボストン・レッドソックス、ブルックリン・ドジャース、ピッツバーグ・パイレーツに在籍し、1939年に現役を引退した。17年間での通算安打数は2524本、生涯打率は.330に及ぶ。 1964年ベテランズ委員会によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。1971年フロリダ州サラソータで死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヘイニー・マナシュ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Heinie Manush 」があります。 スポンサード リンク
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