|
ハスモン朝(、 )とは、紀元前140年頃から紀元前37年までユダヤ(イスラエル)の独立を維持して統治したユダヤ人王朝。紀元前166年に起きたユダ・マカバイ(マカベウス)によるセレウコス朝軍への決起から20年後に成立。フラウィウス・ヨセフスによればハスモンという名は一族の先祖、祭司マタティアの祖父の名前に由来しているといわれている。 == ハスモン朝の歴史 == ===起源(マタティアス、ユダ、ヨナタン)=== ハスモン朝の起こりについてはフラウィウス・ヨセフスの著作および旧約聖書の外典(第二正典)である「マカバイ記」1・2に詳しい。マカバイ記は七十人訳聖書に含まれていたため、カトリック教会と正教会によって旧約聖書の一書として受け入れられたが、ヤムニア会議以降のユダヤ教とプロテスタント諸派はこれを正典として受け入れなかった。 マカバイ記の記述によれば、セレウコス朝シリアの王アンティオコス4世エピファネスはエルサレム神殿において異教の神への捧げ物と祭儀を行って、これを冒涜したため、紀元前167年にモディンという村の祭司マタティアとその息子たち(ヨハネ、シモン、ユダ、エレアザル、ヨナタン)がシリアの役人を殺害して荒れ野に逃れ、抗戦を呼びかけた。 紀元前166年にマタティアが死ぬと、息子でマカバイと呼ばれたユダ(ユダ・マカベウス)がそのあとを次いで軍事蜂起を行ってシリア軍を排除し、紀元前164年のキスレウの月(12月)の25日に聖所を清めた。今も行われるユダヤ人の祭りハヌカはこのユダが聖所を清めた出来事を記念している。シリア軍は依然としてエルサレムの要塞に拠っていた。シリアで将軍リュシアスが実権を握ると、エルサレムに大攻勢をかけ、ユダたちは窮地に陥った。しかしセレウコス朝内での権力闘争が起こったため、リュシアスはユダたちと和解し、ユダヤに対するシリアの主権を認めることとひきかえに、ユダヤ人の宗教的自由を完全に認めるという協定が結ばれた。 その後、シリアによって任命された大祭司アルキモスにユダたちが叛旗を翻したことで、再びシリアとの間に軍事衝突を引き起こした。ユダはその争いの中で紀元前160年に戦死した。ユダの戦死後、指導者となった兄弟のヨナタンはシリアの王との戦闘の末に講和を結び、大祭司としての地位を承認された。正統な祭司の家系に属さない人物が大祭司になったことに衝撃を受けた敬虔派の人々はハスモン家と距離をとるようになっていく。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハスモン朝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|