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ハドリアヌス帝 : ウィキペディア日本語版
ハドリアヌス

プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス(、76年1月24日 - 138年7月10日)は、第14代ローマ皇帝(在位:117年 - 138年)。ネルウァ=アントニヌス朝の第3代目皇帝。帝国各地をあまねく視察して帝国の現状把握に努める一方、トラヤヌス帝による帝国拡大路線を放棄し、現実的判断に基づく国境安定化路線へと転換した。
==治世・歴史的評価==

===皇帝即位からローマ帰還まで===
ハドリアヌスはローマで生まれた(原籍があるヒスパニア・バエティカのイタリカで生まれたとの説もある)。トラヤヌスの従兄弟の子である。
93年(または94年)、二十人委員の職に就き、民生関係の修行をした。ついで、パンノニア下部モエシア及び上部ゲルマニア属州で高級軍団将校を務める。その後101年、元首財務官に就任、トラヤヌスの秘書を務める。皇帝の演説を元老院で代読したのは、この時のことである。105年護民官に就任、ついで法務官(プラエトル)に任命された。その後、軍団司令官として第2次ダキア戦争に従軍、この戦争で実績を重ね、107年からは属州長官として下部パンノニアを治めた。この属州の長官のときの功績により、108年には数か月間、補充執政官を務めた。
114年から開始されたパルティア戦争では軍団の司令官に任命され、参謀本部内でトラヤヌスの補佐役として優れた手腕を発揮した。117年、トラヤヌスは、ハドリアヌスを属州シリアの総督に任命した。病を得たトラヤヌスは、ハドリアヌスをパルティア遠征軍の総司令官に任命し、ローマへ帰国の途につく。しかし、トラヤヌスはキリキア地方のセリヌスで不帰の人となった。死の床でトラヤヌスはハドリアヌスを養子に指名したが、これは皇后プロティナの支持があったからだといわれる。
8月9日、アンティオキア滞在中のハドリアヌスにトラヤヌスの養子となった旨の書簡が届く。その2日後、トラヤヌス逝去を報ずる書簡が届いた。このとき、ハドリアヌスは配下の軍隊から「インペラトル(皇帝)」と歓呼された。公式にはこの日が「即位の日」とされる。ハドリアヌスはセリヌスへいって弔問したあと、再びシリアへ戻る。その際、東部国境の安定化のため、属州メソポタミアアルメニアの放棄を決定した。その処理が終わると、蛮族の侵入によって不穏な情勢にあったドナウ川流域を訪れ、属州ダキアと属州モエシアを再編成し、翌年7月、ようやくローマへ帰還した。
ハドリアヌスの帝位継承については、元老院議員の一部から異論が出るおそれがあった。そのためであろう、かつてハドリアヌスの後見人であった腹心の近衛長官アッティアヌスは予防的措置として、「元老院の命令により」、執政官を経験した有力な元老院議員4名を殺害させた(ハドリアヌスが命じたとする研究者もいる)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Hadrian 」があります。



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