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ハニー・レーヌ(, 1952年3月21日)は、日本のモデル、女優である〔''ハニー・レーヌ''、''jlogos.com'', エア、2014年8月6日閲覧。〕〔国立国会図書館サーチ 検索結果、国立国会図書館、2014年8月6日閲覧。〕〔''ハニー・レーヌ''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年8月6日閲覧。〕〔''ハニー・レーヌ''、日本映画情報システム、文化庁、2014年8月6日閲覧。〕〔''ハニー・レーヌ''、日本映画製作者連盟、2014年8月6日閲覧。〕〔''ハニー・レーヌ''、KINENOTE, 2014年8月6日閲覧。〕〔''ハニー・レーヌ'' / ''ハニー・レイヌ''、日本映画データベース、2014年8月6日閲覧。〕〔''Honey Lane''、インターネット・ムービー・データベース 、2014年8月6日閲覧。〕。ハニー・レイヌとも。本名は山口 摩里子(やまぐち まりこ)〔。高校在学中の1968年(昭和43年)に満16歳で秋山庄太郎のモデルとしてデビュー、在学中は映画にも出演した〔〔〔〔〔〔。1970年代には女性向け手芸雑誌・ファッション雑誌を中心に活動した。 == 人物・来歴 == 1952年(昭和27年)3月21日、神奈川県横須賀市に生まれる〔。 北鎌倉高等学校(現在の北鎌倉女子学園高等学校)在学中の1968年(昭和43年)、満16歳のとき、写真家の秋山庄太郎のモデルになり、ヌード写真でデビューした〔。東映の岡田茂・天尾完次に女優として起用され、同年9月28日に公開された成人映画『徳川女刑罰史』(監督石井輝男)に助演し、映画界に進出した〔〔〔徳川女刑罰史 、国立国会図書館、2014年8月6日閲覧。〕。同年11月に公開された林美樹主演の成人映画『好色マンション㊙室』(監督小川欽也)に助演し、独立系プロダクションの成人映画にも出演した〔。同年12月に公開された『女子学生残酷白書 真赤なうぶげ』(監督渡辺護)、翌1969年(昭和44年)1月に公開された『知りすぎた女高生』(監督佐々木元)では、主演を果たした〔。ふたたび東映に起用され、同年5月2日に公開された東映京都撮影所製作の『徳川いれずみ師 責め地獄』(監督石井輝男)、翌1970年(昭和45年)3月29日に公開された東映東京撮影所製作の『現代女胴師』(監督高桑信)にそれぞれ助演している〔〔〔〔〔。同年3月に同校を卒業した〔。秋山門下から女優に転身した先輩に一星ケミがいるが〔一星ケミ 、''jlogos.com'', エア、2014年8月6日閲覧。〕、ハニー・レーヌはモデルにとどまり、高校卒業後、7年間映画に出演しなかった〔〔〔〔〔。1969年出版された『アサヒ芸能増刊 あの「いい女」101人のプライバシー』に「南関東K県Y市でY口・Sさんの妻となり、Y口摩里子の本名でY口酒店を切り盛りする二児のママ」と書かれてあるという。 名鉄百貨店では、1970年の夏のお中元キャンペーンにハニー・レーヌを起用した〔名鉄, p.162.〕。1971年(昭和46年)から翌年にかけての『装苑』(文化出版局)には、毎号、ハニー・レーヌのページが存在した〔。『装苑』のほかにも、シルバー編物研究会が発行した女性雑誌『女性ルーム』や、日本ヴォーグ社の『編み物ヴォーグ』等の女性向け手芸・ファッション雑誌のモデルとして人気であった。1970年代においては、ファッション写真を中心にひきつづきモデルとして活動していたが、満25歳になった1977年(昭和52年)11月26日に公開された『瞳の中の訪問者』(監督大林宣彦)で7年ぶりに映画出演した〔〔〔〔〔。 大林宣彦は『HOUSE ハウス』を作るより前に『さびしんぼう』を作りたいと、当時手掛けていたCMに出演していた誰かを主演にと探していて理想的なイメージ・キャスティングとしてはハニー・レーヌが一番ふさわしいと考えていた。大林はハニー・レーヌがヌード写真でデビューする以前、15歳のときのハニー・レーヌをソルーナのCMで一ヶ月かけて伊豆の大島で撮影していて『瞳の中の訪問者』は、それから10年後の待望の起用であった〔。大林は「僕がもう10年早く映画を撮っていたら、僕の映画の主役でスタートして、たぶん一生僕の映画に出演したと思う」と話している〔。 以降、消息は不明であったが、1992年(平成4年)1月に発行された週刊誌『サンデー毎日』に、横浜市内に在住との近況が報道された〔毎日, p.190-200.〕。以降の消息は不明である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハニー・レーヌ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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