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ハバードトンの戦い(ハバードトンのたたかい、)は、アメリカ独立戦争のサラトガ方面作戦中に起こった戦闘である。当時は論争が行われていたニューハンプシャー勅許地(現在はバーモント州)ハバードトンの村で戦われた。1777年7月7日朝、サイモン・フレーザー将軍の指揮するイギリス軍がタイコンデロガ砦から撤退中の大陸軍後衛部隊に追いついた。これはこの戦争の間に現在のバーモント州で戦われた唯一の戦闘である(後日、ベニントンの戦いが起こったが、実際の戦場はバーモント州ベニントンではなく、ニューヨーク州のワルームザックだった)。 タイコンデロガ砦ではイギリス軍が砦を見下ろす高地に大砲を運び上げた後、大陸軍が7月5日遅くに撤退を始めた。アーサー・セントクレアの指揮する大陸軍の大半はハバードトンからキャッスルトンに後退し、セス・ワーナーが指揮していた後衛部隊は休憩と落伍兵を待つためにハバードトンで停止した。 フレーザー将軍は7月6日早朝に大陸軍の撤退を知らされ、即座に追跡を開始して、ジョン・バーゴイン将軍には出来る限り速く援軍を送ってくれるよう伝言を残した。その夜、フレーザーはハバードトンの数マイル手前で宿営し、援軍を率いてきていたドイツ人傭兵のフリードリヒ・リーデゼル将軍はさらに数マイル後方で宿営した。翌朝早く起床したフレーザーの部隊は大陸軍後衛部隊の幾らかに急襲を掛けたが、他の部隊は防衛線を形成することができた。激戦の中で大陸軍が後退させられたが、リーデゼルの援軍が到着したのははフレーザーの部隊が大陸軍の左翼に回りこもうとしていたときであり、結果的に大陸軍を蹴散らすことになった。 この戦闘はイギリス軍を酷く疲れさせることになり、それ以上大陸軍本体を追撃できなかった。大陸軍の多くの捕虜がタイコンデロガ砦に送られ、イギリス軍はスケンスボロまで進んでバーゴインの本隊と合流した。散り散りになった大陸軍兵はハドソン川に向かっていたセントクレアの本隊に合流した。 == 背景 == ジョン・バーゴイン将軍はハドソン川流域の支配を目指して、1777年6月下旬に8,000名の軍隊を率いてサラトガ方面作戦を始めた。まずシャンプレーン湖を下り、7月1日にタイコンデロガ砦近くに到着した〔Nickerson (1967), pp. 108,140〕。7月5日、タイコンデロガ砦とその周辺の支援防御工作物を守る大陸軍のアーサー・セントクレア将軍は、バーゴイン軍の部隊が砦を見下ろす高地に大砲を据えたことを発見した。大陸軍はその夜に砦を脱出し、主力はニューハンプシャー特許地のハバードトンを抜ける荒れた道を行軍した〔Nickerson (1967), pp. 145–146〕〔この戦闘が起こった当時、この地域はニューヨーク植民地とバーモント共和国が領有を主張していた。バーモント共和国は1777年1月に独立を宣言したが、実際にはこの戦闘の後になる7月8日になって初めて国名を採用した。それまではニューコネチカット共和国と呼ばれていた。〕。この日は暑く日が照っており、その行軍速度が速くて非常に骨の折れるものだった。軍の大半は30マイル (50 km) 先のキャッスルトンまで行軍し、7月6日の夜はそこで宿営した〔Nickerson (1967), pp. 147–148〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハバードトンの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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