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サー・ハミルトン・アレグザンダー・ロスキーン・ギブ (Sir Hamilton Alexander Rosskeen Gibb, 英国学士院会員,1895年1月2日 – 1971年10月22日, H. A. R. Gibb〔Gibb, H. A. R. (Hamilton Alexander Rosskeen) (1895–1971) . 〕 という表記でも知られる)は、スコットランド人の東洋学者、歴史学研究者。〔Albert Hourani, "Gibb, Sir Hamilton Alexander Rosskeen (1895–1971) ", Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004, accessed 6 August 2008.〕 == 生涯 == 1895年1月2日、エジプト、アレクサンドリア生まれ。父は Alexander Crawford Gibb (Gladstone, Renfrewshire, Scotland 出身の John Gibb の息子)。母は Jane Ann Gardner (Greenock, Scotland 出身)。 父は1897年に亡くなったので、その後は母がアレクサンドリアで教育の仕事に携わるようになった。ハミルトンが正式な教育を受けるようになったのは彼がスコットランドへ戻った5歳の時で、最初の4年間は先生について個人教授を受けた。1904年からはエディンバラの王立高等学校で学び、1912年まで在学した。 在学中はフランス語、ドイツ語、自然科学も学んだけれども、特に西洋古典学(classics)に注力する。1912年に、セム系言語(ヘブライ語、アラビア語、アラム語)の優待生として、エディンバラ大学への入学が許された。大学入学2年目の1913年に、母が亡くなった。 第一次世界大戦の間、ハミルトンは学業を中断して軍務に就いた。エディンバラ在学中の1917年2月から王立砲兵隊に所属してフランスに赴き、数か月間はイタリアで士官として従軍した。なお、士官となったのは19才の時である。軍務の見返りとして、対独休戦協定が結ばれた1918年11月までの間に、「戦時特権」の修士号が授与された。 戦後、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院でアラビア語を学び、1922年に修士号を得る〔George Makdisi, "Biographical Notice," pgs. xv–xvii. 〕。 後に王立アジア協会(the Royal Asiatic Society)からモノグラフが出版されることになる彼の学位請求論文は、中央アジアにおけるイスラームの征服をテーマとしていた。 1921年から1937年まで、当時の東洋学研究所(the School of Oriental Studies)でアラビア語(及び、アラビア語文学、歴史。以下同じ。)を教え、1930年にここで教授となった〔"H.A.R. Gibb," ''ソビエト大百科事典'', 第3版 (1970–1979).〕。この間に、イスラーム百科事典の編纂者の一人となった〔George Makdisi, "Biographical Notice," pgs. xv–xvii. 〕。1937年に、オクスフォード大学聖ヨハネ校のアラビア語を教える教授(この地位の創設者、ウィリアム・ロードの名前をとって"Laudian Professor of Arabic"という名称がつけられている)となる。前任者は D. S. Margoliouth であった。ここには18年間、在職した。〔George Makdisi, "Biographical Notice," pgs. xv–xvii. 〕 1955年には、ハーヴァード大学教授となり、アラビア語を教えた。〔George Makdisi, "Biographical Notice," pgs. xv–xvii. 〕〔"H.A.R. Gibb," ''ソビエト大百科事典'', 第3版 (1970–1979).〕 私生活においては、1922年に結婚し、一男一女を得た。〔George Makdisi, "Biographical Notice," pgs. xv–xvii. 〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハミルトン・ギブ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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