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ペグー王朝は、13世紀末よりビルマ(ミャンマー)のペグー(バゴー)を首都としてエーヤワディー川流域の南部(下ビルマ)を支配した王朝。 建国者のワーレルーはシャン族の人間であるが〔ハーヴェイ『ビルマ史』、161頁〕〔『もっと知りたいミャンマー』、19,128頁〕、事実上モン族の国家と見なされている〔『もっと知りたいミャンマー』、19頁〕〔大野『謎の仏教王国パガン』、232頁〕の王朝。港市国家に分類される〔奥平「ペグーおよびインワ朝からコンバウン朝へ」『東南アジア史 東南アジア近世の成立』、263頁〕。この王朝を指す際に、ペグーの旧称であるハンターワディー(ハムサワティ)にちなんだハンターワディー王朝(、モン語: )の名称が使用されることも多い。 下ビルマには11世紀初頭までモン族の国家であるが存在していたが、タトゥン王国がビルマ族の国家であるパガン王朝によって征服された後、13世紀末にモン族の王朝が再興された経緯については不明な点が多い〔ケーティーモン「モン世界」『ミャンマー概説』、184頁〕。遅くとも15世紀の時点のペグー王朝は、過去に存在したモン族の国家とは全く異なる性質を有していた〔。 == 歴史 == === ハンターワディー遷都前 === 王朝の創始者であるマガドゥーは、下ビルマの地方のドンウン村の出身で、キンマ売りの行商人の元締めの子として生まれた〔大野「ワーレルー」『新版 東南アジアを知る事典』、496頁〕。マガドゥーはスコータイ王国の象使いに仕え、働きぶりを認められて近衛隊長に抜擢された。やがてマガドゥーはスコータイの王女と故郷の下ビルマに駆け落ちし、1281年にマルタバン(モッタマ)のビルマ族太守アレインマを殺害して独立する〔。独立後、マガドゥーはペグー太守タラビャーの元に妹を嫁がせ、婚姻関係を構築した。パガン王朝から派遣されたペグー遠征軍を撃退した後、マガドゥーは不仲になったタラビャーを殺害し、下ビルマ全域を支配下に置いた。 1287年にスコータイの援助を受けたマガドゥーはマルタバンを首都とする政権を樹立し、ワーレルーという即位名を称した。ワーレルーはスコータイに忠誠を誓い、スコータイ王ラームカムヘーンからチヤオ・ファ・ルアの称号を授与された〔ロン・サヤマナン『タイの歴史』(二村龍男訳, 近藤出版社, 1977年6月)、51,54頁〕。そして、パガン王朝はワーレルーの独立によって経済の要の一つである海上交易の拠点を喪失した〔伊東「エーヤーワディ流域における南伝上座仏教政治体制の確立」『東南アジア史 東南アジア古代国家の成立と展開』、291-292頁〕。ワーレルーの治世に占い師、仏僧、バラモンが集められて既存の法典、司法判例を検討させ、新たな法典「ワーレルー・ダンマタ」が編纂された〔ケーティーモン「モン世界」『ミャンマー概説』、182頁〕。「ワーレルー・ダンマタ」はビルマに現存する最古の法典であり〔荻原「ペグー」『アジア歴史事典』7巻、229-230頁〕、後世に編纂されたビルマの法典の基礎となった〔ハーヴェイ『ビルマ史』、163頁〕。1296年、ワーレルーはタラビャーの2人の遺子に殺害される。 ラームカムヘーンの死後にペグーはスコータイへの臣従を破棄し、スコータイ領のタヴォイとテナセリムを奪取した〔。しかし、王族、盗賊、シャン族移民の反乱のため、政情は不安定な状態に置かれていた〔ハーヴェイ『ビルマ史』、164頁〕。やがて、マルタバンはスコータイ、ラーンナー(チエンマイ)、新興のアユタヤなどのタイの政権の攻撃に晒されるようになる。1363年に反乱に遭った国王ビンニャー・ウーはドンウンに避難するが、6年間をドンウンで過ごした後に反徒によってドンウンの町を追放される。1369年にビンニャー・ウーは首都をハンターワディー(ペグー)に移した〔〔飯島、石井、伊東「上座仏教世界」『東南アジア史1 大陸部』、171頁〕〔奥平「ペグーおよびインワ朝からコンバウン朝へ」『東南アジア史 東南アジア近世の成立』、262頁〕。遷都後、ビンニャー・ウーの長子ラーザーディリ(ヤーザーディリ)がダゴン(ヤンゴン)で自立し、敵対する王族たちと争った。ビンニャー・ウーの死後にラーザーディリがペグーに入城し、王位を継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ペグー王朝」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Hanthawaddy Kingdom 」があります。 スポンサード リンク
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