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ハムドゥッラー・ムスタウフィー・カズヴィーニー (1281–1349; Ḥamdallāh Mustawfī Qazvīnī ) は、イルハン朝時代のペルシア人の歴史家、地理学者、叙事詩人。『心魂の歓喜』 ''Nozhat ol-Gholub'' (نزهه القلوب)、『勝利の書』''Zafar-Nameh''(ظفرنامه)、『選史』''Tarikh-i Guzida''(تاريخ گزيده)の著者。また、カズヴィーン(近代ペルシャ語読みでガズヴィーン)には、青いトルコ石で装飾されたムスタウフィーの霊廟が残る。なお、名前はハムドゥッラーではなくハムドであった可能性もある。〔, p. 234〕〔, p. 97〕 ムスタウフィーの著作を参照することで、イルハン朝統治が当地に与えた影響について知ることができる。タブリーズの歴史に関する著作の中で彼は、タブリーズの人々がモンゴルの到来以前はパフラヴィー語を話していたが、イルハン朝の間に古アゼルバイジャン語(Adhari Turkish)を話すようになったと述べている。また、マラーゲとアルダビールの人々がそれぞれ別のペルシャ語の方言を話しているとも述べている。 また、ペルシャ人については以下のようなことを述べている。 == 生涯 == ムスタウフィー・カズヴィーニーは、9~10世紀にはカズヴィーンの代官や、ガズナ朝時代には財務大臣(ムスタウフィ)を輩出したアラブ系の家系の出自である。ニスバのムスタウフィーは、西暦1220年のカズヴィーン包囲でモンゴル軍に殺された彼の曾祖父でイラクの財務大臣、Amin-al-Din Naṣr にちなむ。なお、カズヴィーン包囲戦は『勝利の書』でよく引き合いに出される。〔 しかしながら、曾祖父 Amin-al-Din Naṣr の子孫は、ムスタウフィーのいとこや兄、そして、ムスタウフィーその人など、モンゴルに仕えた人物が目立つ。ムスタウフィーは、カズヴィーン、、ザンジャーン、ターロマイン (Ṭāromayn) のワズィールになった。著書の『勝利の書』には、自分が開発したカズヴィーンの会計手続きがラシードゥッディーンに認められたことを誇りにしていた旨が認められる。〔 また、ムスタウフィーは、ラシードゥッディーンが催した勉強会に参加したことをきっかけとして歴史への興味を抱いた。そして、フィルダウスィーの『王書』の続編として、預言者の時代から現在までの年代記を韻文の形で書にしようと心に決めた。〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハムドゥッラー・ムスタウフィー・カズヴィーニー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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