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ハリー・ロイド・ホプキンス(Harry Lloyd Hopkins、1890年8月17日-1946年1月29日)は、フランクリン・ルーズベルト大統領の側近で、商務長官(1938-1940年)を務めた。ニューディール政策においては、公共事業促進局を拠点に失業者の救済プログラムの作成を行った。また第二次世界大戦中は、ルーズベルトの外交顧問としてレンドリース法の策定を初め、アメリカの戦時戦略の遂行に重要な役割を担った人物である。 ==略歴== アイオワ州生まれ。1912年、グリンネル・カレッジ(Grinnell College)卒業。ニューヨーク市の児童福祉局、アメリカ赤十字、ニューヨーク貧困状態改善協会(the New York Association for Improving the Condition of the Poor: AICP)や結核協会(the New York Tuberculosis Association)などで社会福祉・公衆衛生政策の策定や運営に携わる。 1930年代に入り、緊急救済局(TERA)での働きが、当時ニューヨーク州知事を務めていたルーズベルトの目に留まり、ルーズベルトとの親交が深め、彼の側近としての地位を築いていった。ルーズベルトの大統領就任とともに、ワシントンD.C.政界入りし、連邦緊急救済局や公共事業促進局の長官として失業者対策を中心にニューディール政策の実施に尽力した。1938年から1940年まで商務長官を務めた。 第二次世界大戦が勃発すると、ホプキンスは、ルーズベルトの非公式な特使(その言動を議会や合衆国憲法に規制されない大統領直属の非合法工作員ともいうべき立場)として、カイロ会談、テヘラン会談、ヤルタ会談に同行し、チャーチルやスターリンら連合国首脳との調整役として活躍した。なお大戦中、ソビエト連邦要人と頻繁に接触していた(世界最大の資本主義国家の要人でありながら、些細なスパイ嫌疑で自国民をも大量虐殺するほど猜疑心の強いソビエト要人達から絶大な期待と信頼を寄せられるという不可解な立場にあった事を意味する)ため、ホプキンスに対し、いかなる経緯でこれほどまでにソ連側の信頼を得られたのか?という疑惑が向けられた上、彼がルーズベルト時代に推し進めた外交政策の多くがソ連による共産圏の維持と拡大への支援となっていたという事実に照らして実はソ連のスパイではなかったのか、あるいは世界を資本主義と共産主義に分割して冷戦を演出しようとしていた何者かの工作員だったのではと噂されるに至っており、その背後事情や真偽に関して様々な論争がある〔クリストファー・アンドルー, オレク・ゴルジエフスキー『KGBの内幕: レーニンからゴルバチョフまでの対外工作の歴史』福島正光訳、文藝春秋、1993年、上巻、pp.413-418。Herbert Romerstein and Eric Breindel, ''The Venona Secrets: Exposing Soviet Espionage and America's Traitors'', Regnery, 2001, pp. 213–215. Verne W. Newton, "A Soviet Agent? Harry Hopkins?" ''New York Times'', October 28, 1990.〕。 1946年1月29日、ニューヨーク市で胃癌のため死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハリー・ホプキンス」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Harry Hopkins 」があります。 スポンサード リンク
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