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ハルデン=オイレンブルク事件 : ウィキペディア日本語版
ハルデン=オイレンブルク事件[はるでんおいれんぶるくじけん]

ハルデン=オイレンブルク事件(Harden-Eulenburg-Affäre)または単にオイレンブルク事件(Eulenburg-Affäre)は、1907年から1909年まで続いた、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の閣僚や側近が同性愛者として糾弾されたことに始まるスキャンダル。この指弾が名誉棄損となるかを争う一連の法廷闘争が展開された。
事件の中心をなしたのは、同性愛の告発をしたジャーナリストのと、告発を受けたフィリップ・ツー・オイレンブルク侯爵および将軍との争いだった。両陣営のあいだでは非難の応酬が激しく展開され、皇帝とその友人たちが形成していたサークル「リーベンベルク円卓(:de:Liebenberger Kreis)」は、ゲイ男性の集団を意味する言葉として使われるようになった。事件は公衆に広く知られることになり、ドイツ帝国で起きた最大のスキャンダルとなった。またドイツで最初の同性愛をめぐる大論争を引き起こしたことから、同時期にイギリスで起きたオスカー・ワイルド裁判としばしば比較される。
== 原因 ==

事件の発端となる出来事は、ヴィルヘルム2世が外交問題で失敗を犯した直後に起きた。1907年11月、ヴィルヘルム2世はシュヴァルツヴァルトの貴族の領地で友人たちを招いて休暇に入った。ある日の夕食後、軍事大臣のディートリヒ・フォン・ヒュルゼン=ヘーゼラー伯爵は余興にチュチュを着てバレリーナに扮し、パ・スールを踊っている最中に心臓麻痺を起して倒れた。その場に居合わせたオーストリアの外交官オタカル・チェルニーン伯爵は、「ヴィルヘルム2世はいままで見たことが無いほど狼狽して目に恐れを浮かべ、目の前の出来事は本物かと言わんばかりに、宙を見上げていた」と書き残している。この事故は皇帝と同性愛との密接な関わりを暗示するものであったが、皇帝にとっては幸いにも、この秘密の遊戯は世間の目にふれないまま消えるかに思われた。
しかし、ドイツ政府の外交政策に批判的な者たちにとって、この出来事は格好の攻撃材料だった。ヴィルヘルム2世は1890年に「鉄血」宰相オットー・フォン・ビスマルクを退け、ビスマルクが和平条約や同盟によって進めてきた現実主義的な外交政策を放棄した。そしてそれに代えて、ビスマルク路線に対外強硬路線を組み合わせた拡張主義的な世界政策:en:Weltpolitik)を採用していた。ヴィルヘルム2世の最も信任厚い側近で反帝国主義者のフィリップ・ツー・オイレンブルクは、ひらの外交官からオーストリア大使に昇進した。ビスマルクを含む多くの人々が、皇帝とオイレンブルクの関係の実態は「紙に書ける」ようなものではないことに気づいていた。しかし彼らの親密すぎる関係を知る人々は、私生活上の様々な行動は、公的な場で明るみに出すことではないと考えていた。
『未来(Die Zukunft)』という定期刊行雑誌の主宰者で、強硬な帝国主義を支持するマクシミリアン・ハルデンは、オイレンブルクが皇帝に協調主義を吹き込み、拡張主義路線を後退させていると考えていた。ハルデンは1902年にオーストリア大使を退いたオイレンブルクを、私生活上の暴露記事を書くと言って脅すようになり、これが原因となってオイレンブルクは1906年に公的生活から引退した。ドイツ政府が外交政策で失敗を犯して1906年のアルヘシラス会議フランスによるモロッコ支配を認めると、ハルデンは再びオイレンブルクを脅迫し始め、オイレンブルクはスイスへの移住を余儀なくされた。
1906年から1907年にかけ、6人の将校が同性愛行為がもとで脅迫を受けて自殺しており、また1904年から1907年の3年間で20人程度の将校が同性愛のために軍法会議にかけられていた。皇帝の親衛隊は上官や皇帝の側近への性的奉仕を強要されていた。親衛隊の隊長を務めていたのが皇帝の又従弟の陸軍中将ヴィルヘルム・フォン・ホーエナウ伯爵であったことも、攻撃材料になりえた。ハルデンにとって同性愛スキャンダルよりも悪く思えたのは、オイレンブルクがドイツに帰国して黒鷲騎士団の騎士叙任を受けようとしていたことだった。オイレンブルクは皇帝の弟ハインリヒ王子に、同性愛行為に耽っていることを理由にマルタ騎士団の騎士叙任を拒否されていたが、騎士団に入ることをあきらめていなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ハルデン=オイレンブルク事件」の詳細全文を読む



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