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ハンガリー人民共和国(ハンガリーじんみんきょうわこく、, )は、1949年から1989年までの共産主義政権時代のハンガリーの正式国名である。この国家はソビエト連邦の指導を受けていた。この国家は1989年に同国がマルクス・レーニン主義を放棄するまで存続した。 この国家は、1919年に世界2番目の社会主義国としてソビエト連邦の後押しを受けて成立したハンガリー・ソビエト共和国の後継国家と考えられている。 == 歴史 == === 成立=== 第二次世界大戦の中で、ハンガリーは1944年からクリメント・ヴォロシーロフ率いるソビエト連邦軍(赤軍)の占領統治を受けた()。第二次世界大戦中のハンガリー臨時政府の流れを汲み、1946年1月に成立したハンガリー第二共和国が成立した。共和国成立に先立って行われた選挙ではソ連軍がハンガリー共産党優位になるようにサポートしたものの、結果は独立小農業者党支持が57%を占め、ハンガリー共産党の得票は17%であった〔吉岡、19p〕。しかしソ連は独立小農業者党単独政権の発足を許さず、共産党が参加した連立政権を発足させた。ハンガリー共産党員ライク・ラースローは内務大臣となり、ソ連のNKVD(内務人民委員部)を模倣した秘密警察、ÁVO(ハンガリー国家警察・国家保安部、後にÁVH(ハンガリー国家保衛庁))を設立した。共産党書記長ラーコシ・マーチャーシュは、いわゆるサラミ戦術によって他党の勢力を切り崩し、影響力を高めていった。3月には社会民主党・全国農民党・労働組合と左派ブロックを形成した〔鹿島、56p〕。 1946年12月、「将校の秘密組織による陰謀」が発覚したとして、独立小農業者党の幹部が次々と逮捕されはじめた。1947年5月30日には党首で首相のナジ・フェレンツ(en)が亡命に追い込まれた〔吉岡、33p〕。ディンニェーシュ・ラヨシュが後継首相となったものの、さらにドビ・イシュトヴァーンら左派が分裂し、小農業者党は零落した。8月4日、大統領ティルディ・ゾルターンは汚職の疑いをかけられて辞任し、共産党の幹部サカシチ・アールパードが大統領となった。共産党は8月31日に行われた選挙によって第一党となった。しかしこの時点でも共産党の得票は全体の22%であり、与党である左派ブロック全体をあわせても61%にとどまった。しかしこの時点で勤労者党の優位は不動のものとなり、事実上の勤労者党による独裁体制が確立された〔。1948年6月12日、社会民主党は幹部を大量に除名し、ハンガリー勤労者党と改称した共産党に合流した。この時点での勤労者党の党員はハンガリー人口の9分の1である100万人であった〔。 1949年になると、東欧諸国ではヨシフ・スターリンによるヨシップ・ブロズ・チトー批判の影響を受けた「チトー狩り」が始まった。ハンガリーでも書記長ラーコシは政敵をチトー派として粛清していった。9月には党内ナンバー2であったライクも、彼自身が設立したÁVOによって逮捕され、10月に処刑された。こうして勤労者党の上層部は「モスクワ帰り」によって占められるようになり、ソ連化が進んでいった〔鹿島、57p〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハンガリー人民共和国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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