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ハンス・ヘンリック・ウィンド(Hans Henrik Wind、1919年7月30日 - 1995年7月24日)は、フィンランドの軍人。スウェーデン系フィンランド人。エース・パイロット。マンネルヘイム十字勲章を2度受章。愛称は「ハッセ」。ソビエト連邦との継続戦争時に活躍、75機の確認戦果を持つ(出撃回数302回)。これはフィンランド空軍第2位のスコアである。 == 戦歴 == パイロットに志願、1939年予備士官となるが、冬戦争中は航空機不足のため参戦の機会はなかった。 1941年6月、正規の戦闘機パイロットを目指し士官学校を修了。8月、ブリュースター バッファロー(フィンランド空軍での呼称はブルーステル)装備の第24戦隊に配属される。 同年9月27日、ポリカルポフI-15を相手に初撃墜を記録(共同撃墜)。翌1942年3月29日、ポリカルポフR-5(共同撃墜)で通算撃墜数5機に達し、エースとなる。その後着実に経験を積み、8月14日にはハリケーン2機、8月18日にはハリケーン1機とI-16を2機の計3機を1日で撃墜するなど戦果を重ねた。 1942年11月、ルーッカネン少佐の第30戦隊長転任とともに、第1中隊長の職を一時引き継ぎ、その後第3中隊長となる。この間、5月4日には1日の出撃でシュトルモビクを3機、I-153を1機の計4機を落とす活躍をしている。7月31日には、最初のマンネルヘイム十字章を受章。10月19日、大尉に昇進。 1944年3月21日、ウィンドはブルーステルでの最後の戦果(La-5)を上げる。ここまでの通算は39機で、フィンランド空軍中ブルーステルでの戦果は第1位。その過半はBW-393号機で上げたもので、これは42年11月までは主にルーッカネンが搭乗していた機体だった。両エースが愛機としたため、同機は個別のブルーステルの中では最多の撃墜数(41機)を持つ殊勲機となった。 その後、第24戦隊は第34戦隊から譲り受けたメッサーシュミットBf109G-2に機種転換。ウィンドも「メルス(フィンランド空軍でのBf109の呼称)」MT-201号機に乗り換え、スコアを重ねる(同機で11機撃墜)。奇しくも、このMT-201号機も第34戦隊でルーッカネン少佐が愛用していた機体で、やはりフィンランド空軍のメルス中で最多の固有撃墜数(32.5機)を持つことになった。 1944年6月には、メッサーシュミットBf109G-6、MT-439号機に乗り換える。ウィンドの空戦術にはさらに磨きが掛かり、6月19日に3機、6月20日には5機、22日に3機、23日には4機、26日、28日にもそれぞれ5機と、10日間のうちに25機という大量撃墜を果たした。しかし、この6月28日の空戦で重傷を負い、基地までなんとか帰投したものの、そのまま病院で戦争終結を迎えることとなった。列機のニルス・カタヤイネンは、この日は難を逃れたものの、1週間後にやはり重傷を負ってウィンドと同じ病院に担ぎ込まれた。ウィンドはこの6月28日付で、2度目のマンネルヘイム十字章を受章。同勲章を2度受章したのはフィンランド全軍で4人、パイロットではエイノ・イルマリ・ユーティライネンとウィンドのみである。メルスでの通算戦果は36機。 1945年10月10日に軍を退役した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハンス・ウィンド」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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