|
ハンス・カロッサ(Hans Carossa,(1878年12月15日 - 1956年9月12日))はドイツの開業医、小説家、詩人。謙虚でカトリック的な作風であった。 == 経歴 == バイエルン王国(現在のドイツ・バイエルン州)バート・テルツ (Bad Tölz) に生まれた。父も祖父も医師であった。父方の祖はイタリア人で、本来の苗字はカロッツァであった。1886年、一家が転居したピルスティング (Pilsting) の小学校に入り、1888年、ランツフートのギムナジウムへ進み、15歳の頃からヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテを読んだ。詩作も試みた。 1897年、19歳でミュンヘンに出て、ミュンヘン大学、ヴュルツブルク大学、ライプツィヒ大学で医学を修め、かたわら、詩人や作家と交友し、詩を新聞雑誌に載せた。1903年、医師となり、パッサウで父の代診を始めた。この頃結婚した。1905年、医学博士の学位を取得した。詩人リヒャルト・デーメル (Richard Dehmel) やフーゴ・フォン・ホーフマンスタールに近づき、1910年に『詩集』を、1913年に『ドクトル・ビュルゲルの最後』を出版した。 1910年、36歳でニュルンベルクへ移るが、1914年の第一次世界大戦勃発直後、ミュンヘンへ移住した。ここでシュテファン・ゲオルゲ、ライナー・マリア・リルケを知った。志願して軍医となり各地に転戦し、陣中で『幼年時代』や『ルーマニア日記』の草稿を綴ったが、負傷して帰還した。 その後、ドナウ川畔のゼーシュテッテン (Seestätten) へ移り、自らの経験にもとづく数篇の小説を書いた。また頻繁にイタリアへ旅行した。1931年、チューリッヒでゴットフリート・ケラー賞を、1938年にフランクフルト・アム・マインのゲーテ賞を受賞した。 ヒトラーの時代、派手なナチス批判はせず、要人と会うこともしたが、末期にパッサウの防衛放棄を訴えて睨まれ、侵攻してきたアメリカ軍に危うく救われる、という一幕もあった。 1948年、70歳でケルン大学・ミュンヘン大学から名誉哲学博士号を受けた。パッサウの名誉市民にも推された。 1956年、パッサウ近郊のノイキルヒェン・バイム・ハイリゲン・ブルート(Neukirchen beim Heiligen Blut, 別名リットシュタイク/Rittsteig)に没した。78歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハンス・カロッサ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|