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ハンフリー・デービー
初代準男爵、サー・ハンフリー・デービー(Sir Humphry Davy, 1st Baronet、1778年12月17日 - 1829年5月29日)は、イギリスの化学者で発明家〔David Knight, ‘Davy, Sir Humphry, baronet (1778–1829)’, Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004 accessed 6 April 2008 〕。アルカリ金属やアルカリ土類金属をいくつか発見したことで知られ、塩素やヨウ素の性質を研究したことでも知られている。ベルセリウスは ''On Some Chemical Agencies of Electricity'' と題したデービーの1806年の Bakerian Lectureを「化学の理論を豊かにした最良の論文のひとつ」としている〔, 〕。この論文は19世紀前半の様々な化学親和力理論の核となった。1815年、デービー灯を発明し、可燃性の気体が存在しても坑夫が安全に働けるようになった。 == 生涯 ==
1778年12月17日、コーンウォールのペンザンスに生まれる。教区記録簿によれば、ロバート・デービーの息子で、1779年1月22日に洗礼を受けたという。父は木彫職人で、利益よりも芸術性を追求する傾向があった。旧家の出身で、多少財産があった。妻グレースの家系も旧家だが、それほど裕福ではなかった。グレースの両親は熱病で相次いで亡くなり、グレースは姉妹と共にペンザンスの外科医ジョン・トンキンの養子になった。ロバート・デービーとグレースは5人の子をもうけた。ハンフリーは長男で、他に弟ジョン(en)(1790年-1868年)がおり、3人の妹がいた。ジョンはハンフリー同様に化学者となり、ホスゲンと四フッ化ケイ素を発見している。 幼いころ一家はペンザンスから近郊にある先祖から受け継いだ土地に引っ越した。トンキンは幼いデービーの聡明さを見抜き、父親を説得して私立学校に転校させた。当初ペンザンスのグラマースクールに通っていたが、J. C. Coryton という聖職者の指導を受けるようになった。デービーは記憶力がよく本から素早く知識を吸収した。特に好きだった本としてバニヤンの『天路歴程』があり、歴史書もよく読んだ。8歳ごろには、市場の荷車の上に立ち、少年たちを集めて最近読んだ本の話を聞かせていた。そうして詩を愛するようになった。 同じころデービーは科学実験を好むようになる。これは主にクエーカーで馬具工を営んでいたロバート・ダンキンの影響である。ダンキンは自分でボルタ電池やライデン瓶を作り、数学の原理を視覚化する模型を作ったりしていた。それらを使ってダンキンはデービーに科学の初歩を教えた。後に王立研究所の教授になったとき、デービーはダンキンから教わった実験の多くを再現することになる。1793年、デービーはトルーローに行き、Cardew という博士の下で教育を終えた。Cardew は後に「彼がこれほど才能があることを見抜けなかった」と述べている。デービー自身は型に嵌められずに放っておかれたことが自分にとってはよかったと後に述べている〔Davy, Sir Humphry (1778–1829), natural philosopher, by Robert Hunt, Dictionary of National Biography, Published 1888〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハンフリー・デービー」の詳細全文を読む
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