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アリー・アクバル・ハーシェミー・ラフサンジャーニー(1934年8月25日 - )は、イランの政治家。大統領(第4代)などを歴任。日本のマスコミなどでは長音記号を排しハシェミ・ラフサンジャニと表記されることが多い。 == 王政時代 == イラン南東部のケルマーン州バフラマーン出身。父のミールザー・アリーは、ウラマーであり、イランでも有数の農業主でもあった。 1948年、生家を離れ、シーア派の聖地ゴム市に赴き、ルーホッラー・ホメイニーに師事した。 1950年代初め、ラフサンジャーニーは、 シャー体制との闘争に初めて入った。当時、彼は、国家の独立の強化を主張したモサッデグ博士の熱狂的支持者だった。クーデタによりモサッデグ政権が倒れ、ラフサンジャーニーは当局のブラック・リストに入る。 1960年代、モハンマド・レザー・パフラヴィー体制は、経済状態が悪化し、政治的危機が増大する中、「白色革命」と呼ばれる社会・経済改革の実施に着手した。改革の中にはウラマーの権限を侵すものもあり、ホメイニーはゴムで蜂起したが鎮圧された。蜂起の組織者は国外追放され、ラフサンジャーニーを含むホメイニーの弟子達は投獄された。ラフサンジャーニーはその後もさらに4回逮捕されている。 この時期、19世紀に西洋的近代化を唱えたガージャール朝の政治家アミーレ・キャビールの思想に共鳴し、彼の伝記を書いている。また、革命までの数年間、欧米や日本を訪問した。広島市の平和記念資料館のノートにラフサンジャーニーと思われる記名がある。旅行中、ヤーセル・アラファートとも会見したことが当局に明らかになり、再び投獄された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハーシェミー・ラフサンジャーニー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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