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ハーバート・オースチン(Herbert 'PA' Austin, 1st Baron Austin KBE 1866年11月8日 - 1941年5月23日)は、20世紀前半に活躍した英国の自動車設計技師、自動車製造会社経営者。 バッキンガムシャーの農家の息子としてリトル・ミスンデンに生まれる。1870年、父が農地管理人に任命されヨークシャー州ウェントワース・ウッドハウスに転居〔Lambert, Chapter 1: Early Days〕。ハーバートは村の小学校に通い、Rotherhamグラマー・スクール〔へ進学する。 1884年、17歳でオーストラリアに移住。母方の叔父がオーストラリア、メルボルンにすんでおり、家族を尋ねて英国にしばらく戻っていた。その叔父の帰郷にあわせハーバートは叔父とともにオーストラリアにケープタウン経由の船で向かう〔。 == オーストラリア、メルボルンでの生活 == 叔父はメルボルン北部でスコットランド生まれのメーファン・ファーガソンがはじめた技術会社の工場長だった〔。ハーバートの仕事は叔父の手伝いからはじまった。その2年後コーエン(''Cowen'' )という会社に移る。そこでは印刷機械とクロスレー・ガス・エンジン〔を取り扱っていた。さらにその後、メルボルンのロングランズ(''Longlands'' )鋳物会社で働く。ここでは蒸気機関車のボイラーや車輪、また、金鉱の掘削用具などを製造した〔。 絵を描くことが好きでメルボルンのHothanアートスクールにも通った〔。メルボルン市スペンサー通りにはヤラ川に架かるスイング橋があるが、この頃、ビクトリア州政府が主催したこの橋のデザインに応募したが選にはもれた〔。 1887年12月26日、21歳の時にヘレン・ドロンとメルボルンで結婚し家を購入。ヘレンはメルボルン生まれで、スコットランド出身の両親の7番目の娘だった。息子が生まれバーノンと名づけた。バーノンは第一次世界大戦に従軍し1915年亡くなっている。娘も1891年生のイレーネと、後ランバート夫人となるゾエの2人がいる。 結婚の3日前、ロングランズ鋳物会社を辞め、リチャード・ピックアップ・パークス(''Richard Pick-up Parks'')所有の機械工房の工場長の職を得た。パークスはフレデリック・ヨーク・ウーズレーのために羊毛刈取機を開発したばかりだった〔。 3ヶ月を羊毛刈取機の改良に費やし、その後、ハーバートはシドニーにある1887年に創立したばかりのウーズレー羊毛刈取機械会社への入社を請う。入社後、ほどなくして、ニュー・サウス・ウェールズ州とビクトリア州の州境にあるAvocaの羊毛刈取場に派遣される。機械の使用状況を調べるためだった〔。オースチンは、自身の改良を特許として取得したが、これを1893年3月10日にウーズレー羊毛刈取機械会社へ売却し、代わりに会社の株を受け取った〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハーバート・オースチン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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