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ハービー・マン(Herbie Mann、本名:Herbert Jay Solomon 1930年4月16日 - 2003年7月1日)は、アメリカのジャズ・フルート奏者。 初期には、テナー・サクソフォンおよびクラリネット(バスクラリネットを含む)も演奏したが、ジャズの境界を破るフルート・テクニシャン、あるいは「ワールドミュージック」のパイオニアとして、1960年代以降のフルートを用いる最も秀でたジャズ・ミュージシャンと目される。また、プロデューサーとしても積極的で、多くの新人音楽家を発掘した。 == 来歴・音楽活動 == ハービー・マンは、ニューヨーク・ブルックリン区でルーマニアとロシアの家系をもつユダヤ人の両親の間に生まれ、ブライトン・ビーチのリンカーン・ハイスクールに通った。キャッツキルズ・リゾートで初めてプロとして舞台に立ったのは15歳のときである。 1950年代、フィル・ウッズらのミュージシャンたちとのコンボに参加してバス・クラリネット、テナー・サックスおよびソロ・フルートを担当したが、20歳を過ぎる頃からはバップ・フルートの第一人者たるべく、この楽器一本に絞る。 彼はフュージョンあるいはワールドミュージックの初期の開拓者とされる。’59年には政府支援のアフリカ旅行に同行してアフロ・キューバン・ジャズのアルバム『フルーティスタ ''Flutista''』を録音、’61年にはブラジルに旅しアントニオ・カルロス・ジョビンやギタリストのバーデン・パウエルら現地ミュージシャンを引き連れてレコーディングをするため帰国した。これらのアルバムは欧米において「ボサ・ノヴァ」を大いに流行らせ、彼はしばしばブラジルを題材とする仕事をした。 1962年の『カミン・ホーム・ベイビー ''Comin’ Home Baby''』のブレークにて大いに名を上げ、1960年代の半ばには彼のバンドにまだ若かったチック・コリアを加えて、ニューポート・ジャズ・フェスティバルへの登場は、’65年のチック・コリアをフィーチュアしたアルバム『''Standing Ovation at Newport''』に、1967年のパフォーマンスは『''New Mann at Newport''』に、それぞれ記録されるべき演奏として収められリリースされた。また、1970年の終わりから80年代初期にかけては、ニューヨークのライブハウス・ボトムラインやジャズクラブ・ヴィレッジ・ゲイトで、インドの古典弦楽器サロードの名手ヴァサント・レイ(Vasant Rai)とのデュエット演奏を行った。 1969年のヒット・アルバム『メンフィス・アンダーグラウンド ''Memphis Underground'' 』に引き続く、数多くのディスコ・スタイルのスム-ズ・ジャズの録音は、純ジャズ主義者からの批判をもたらせはしたが、彼の活躍はジャズにおける関心が衰退するまで続いた。これらのレコーディングに参加したミュージシャンは、歌手シシー・ヒューストン(ホイットニー・ヒューストンの母)、ギタリストであるデュアン・オールマンとラリー・コリエル、ベーシストのドナルド・ダック・ダンとチャック・レイニー、そしてドラマーのアル・ジャクソンとバーナード・パーディらで、いずれもソウル・ミュージックやジャズ界でも良く知られたセッション・プレイヤーの面々である。 この頃、ハービー・マンはジャズ・ミュージシャンには珍しく、数多くのポップ・ヒットの作品保持者であった。彼は1960年代から1970年代にかけて、25枚のアルバムをビルボードのポップ・チャート200に送り込んでいる〔Herbie Mann | Awards | AllMusic 〕。また、彼の最もポピュラーなシングル「ハイジャック ''Hi-Jack'' 」は、1975年にビルボードのダンス・チャートにおいて3週間首位の座を勝ち取り、総合シングル・チャートのBillboard Hot 100でも14位のヒットとなった〔。彼はまた、1978年のカナダ国家の映画制作部門(National Film Board of Canada)におけるアニメ作家イシュ・パテル(Ishu Patel)によるショート・フィルム『''Afterlife''』のための音楽を提供している。 1969年、彼自身のレーベル「エンブリオ・レコード(Embryo Records)」を設立し、本格的にプロデューサー業務に乗り出す。配給はアトランティックのコティリオン・レコード(Cotillion Records)を通じて行われた。エンブリオは1977年までジャズからロック指向まで様々なアルバムを制作・リリース(Embryo Records参照)してきたが、以降は立ち行かなくなり、後の1990年代に至って「ココペリ・レコード(Kokopelli Records)」が立ち上げられた。 1996年、エイズ基金「レッドホット・オーガニゼイション(RHO)」のためのボサ・ノヴァ・アルバム『''Red Hot + Rio''』では他の多くの音楽家たちに交じり、オルタナティブ・ミュージックバンドのステレオラブと一緒に『ワンノート・サンバ / サーフボード ''One Note Samba/Surfboard'' 』を競演した。 最晩年は前立腺癌との長い闘いの末、2003年5月3日のニューオーリンズ・ジャズ祭への73歳での登場を最後に、その2か月後の7月3日に亡くなった。2004年には、旧友フィル・ウッズとの共演盤『ビヨンド・ブルックリン』が遺作としてリリースされた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハービー・マン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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