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ガーリチ公[がーりちこう]
ガーリチ公(、、、)はガーリチ公国の君主の称号である。(「公」はクニャージからの訳出による。)公・公国の名は、その中心都市だったガーリチ(現ウクライナ・ハールィチ)による。 ==略史== ルーシ南西部では、987年にフセヴォロド・ウラジミロヴィチがウラジーミル・ヴォルィンスキーに配置され、ヴォルィーニ公国が成立した。その後1085年に、ヴォルィーニ公国から、ロスチスラフ・ウラジミロヴィチの3人の子(ガーリチ・ロスチスラヴィチ家(ru))によって、テレボヴリ公国、ズヴェニゴロド公国、ペレムィシュリ公国が独立、さらに1124年、テレボヴリ公の子、イヴァン・ヴァシリコヴィチがガーリチを分割相続し、ガーリチ公国が成立した。1141年、ウラジーミル・ヴォロダレヴィチの元に、ガーリチ・テレボヴリ・ズヴェニゴロド・ペレムィシュリが継承・統合され、ガーリチに首都が置かれる。これによって、1124年時に比し、より広大な領土を有する公国に改編された。なお、この間、ヴォルィーニ公国は別個の独立した公国として存続している。 しかし、12世紀末のウラジーミル・ヤロスラヴィチの死によって、ガーリチ・ロスチスラヴィチ家は断絶した。翌年、ヴォルィーニ公位にあったロマン・ムスチスラヴィチ(ガーリチ・ロマン家(ru))がガーリチ公国を併せ、ガーリチ・ヴォルィーニ公国が成立した。ただしロマンの死後、ガーリチ領、ヴォルィーニ領内共にいくつかの分領公国が分離することとなる。またこの間には、リューリク朝の他系統の公家出身者、さらにはハンガリー王家出身の公も登場した。 モンゴルのルーシ侵攻以降、ダニール・ロマノヴィチが再度ガーリチ・ヴォルィーニ公領を統合する(ガーリチ、ヴォルィーニ公等の複数の公位は存続)が、ジョチ・ウルスに従属しつつの公国存続となった。ガーリチ公位はダニール・ロマノヴィチの子孫によって相続され、1254年からはルーシ王の称号を併称した。その後、14世紀前半に断絶し、ガーリチ・ヴォルィーニ公国領はポーランド王国・リトアニア大公国の係争地となった。ハールィチ・ヴォルィーニ戦争の過程で、ガーリチ公領はポーランド王国に接収され、公位は廃止された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ガーリチ公」の詳細全文を読む
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