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バイエルン王国()は、バイエルン選帝侯領を起源として、19世紀初めから20世紀初めまで存在したドイツの王国。ミュンヘンを首都とし、ヴィッテルスバッハ家によって治められた。 ドイツ連邦共和国のバイエルン州の前身であり、同州のほぼ全域とヴィッテルスバッハ家が世襲してきたライン宮中伯領に由来するプファルツ地方(ザールラント州とラインラント=プファルツ州の一部)を領土としていた。 英語名に由来したバヴァリア王国の呼称が使われることもある。 == 歴史 == バイエルンの地は1180年からヴィッテルスバッハ家が治めてきた。 1805年にオーストリアからティロルを割譲されるも反乱に遭う。4月13日にティロル伯領の首府インスブルックの守備隊を降伏させて鎮圧の足がかりを得て、失敗を重ねながらも11月10日にインスブルックを占領。1806年、バイエルン選帝侯マクシミリアン4世の時代に神聖ローマ帝国が崩壊すると、近隣の領土を併合した上でナポレオン・ボナパルトによって王国に昇格され、マクシミリアン4世はバイエルン王マクシミリアン1世を名乗り、ライン同盟の一員となった。元々バイエルンは対オーストリアのためにフランスと同盟することが多かったが、マクシミリアン1世は娘アウグステとナポレオンの継子ウジェーヌ・ド・ボアルネを結婚させ、結びつきを強めた。 1810年2月28日、フランスとパリ条約を結んだ。これによりオーストリアが放棄した旧ザルツブルク大司教領、ベルヒテスガーデン、イン地区、ハウスルック地区を獲得した。その他にバイロイト辺境伯領(フランスがティルジットの和約でプロイセン王国から獲得)とレーゲンスブルク(領主カール・テオドール・フォン・ダールベルクには代替地としてフランクフルト大公国が与えられた)をそれぞれ80万グルデンと310万グルデンでフランスから購入した。ナポレオン・ボナパルトはティロル反乱の原因をバイエルンによる統治に問題があるとし、バイエルンは南ティロルをイタリア王国に、東ティロルをイリュリア州に譲渡せざるを得なかった。 1813年10月8日リート条約を結び対仏大同盟に参加した。前日にはマックス=ヨーゼフ・ペムゼル、マクシミリアン・フォン・モンジュラ、カール・フィリップ・フォン・ヴレーデの3人がボーゲンハウゼン(天文台がある)に位置するモンジュラの別荘に集まり協議していた。マックスが強く反対していたが、ヴレーデ・モンジュラの2人が押し切った。この条約では、オーストリアはバイエルンの主権と領土の保全を保障し、バイエルンが自ら領土を引き渡すときには完全補償することを約束した。15日、バイエルン軍とオーストリア軍は合流してヴレーデの指揮下に入った。 ウィーン会議でバイエルン領の具体的範囲は決着がつかず、オーストリアとの直接交渉に委ねられた。1815年にはプファルツを回収、併合してドイツ連邦に参加した。ドイツ帝国が成立する際にも王国は存続したままプロイセン獲得にに次ぐ帝国の領邦となった。領土は1816年4月のミュンヘン条約で画定した。ミュンヘン条約締結のきっかけは、マリア・ルドヴィカ・フォン・エスターライヒ=エステの死亡をきっかけに対立関係を解消しようという思いで両国が通じ合ったことである。11月、オーストリアのフランツ1世はカロリーネ・アウグステ・フォン・バイエルンと結婚した。 1866年、3500万グルデンの公債発行。ディスコント・ゲゼルシャフトが引受を主導した。 ドイツが第一次世界大戦に敗れると、混乱の中で勃発したドイツ革命により、1918年にルートヴィヒ3世が退位し、バイエルン王国は滅亡した。この前後にわたってオスカル・フォン・ミラーがバイエルンの電力事業をプロデュースした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バイエルン王国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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