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バスチーユの象[ばすちーゆのぞう]
バスチーユの象()とは、1813年から1846年にかけてパリに展示されていた象のモニュメントである。もとになるアイディアは1808年にナポレオンが思いついたもので、彼は青銅製の彫刻をバスチーユ広場に設置するつもりだったが、実際に建てられたのは石膏像だった。それでも高さにして24メートルの巨大な模型はそれ自体がひとの目を惹く建造物であり、ヴィクトル・ユゴーが『レ・ミゼラブル』で登場人物の隠れ家として描いてからはまさに不朽の記念碑となった。バスチーユの地に建設された土台の一部は残っているものの、像そのものは7月革命の記念柱に置き換えられている。 ==構想== バスチーユが1789年7月に陥落した当時、新たに何か記念碑を建設するのかそれとも過去のものをそのままにしておくのかを巡って少しく議論になった。ピエール=フランソワ・パロイがもとあった建築物を解体する仕事を請け負い、使われていた切石はコンコルド橋の建設に再利用された。残りの建材はパロイが土産物として売り払った〔Lost Paris: The Elephant on the Place de la Bastille . 24 May 2011. Accessed 20 August 2011.〕。その後何か月もかけて建物のほとんどが撤去されるまでに1,000人もの労働者がかかわっている〔Place de la Bastille, Part 5 , Discover France. Accessed 20 August 2011.〕。1792年にこの場所はバスチーユ広場へと生まれ変わり、かつてのこの地にそびえていた要塞は名残をとどめるだけになった。 翌1793年にはこの一画に「再生の泉」("Fountain of Regeneration")として知られる泉がつくられた。強くエジプトの影響を受けた趣向で、胸元から水を流す女性の彫刻が特徴的だった〔Schama, Simon. ''Citizens: a chronicle of the French Revolution''. Penguin; New Ed edition 26 Aug 2004.〕〔Michelet, Jules, ''Histoire de la Révolution française'', t. 6, Patis, Chamerot, 1853, p. 220-221.〕。 ナポレオンはパリの街を生まれ変わらせる計画をいくつも練ったが、なかでも自分の勝利を記念するモニュメントにこだわりがあった。彼は軍事力を誇示するために巨大な凱旋碑をつくることを望み、ついに高さ24mの青銅の象の設計にとりかからせた〔Lepage, Jean-Denis GG. ''French Fortifications, 1715-1815: An Illustrated History''. McFarland & Co Inc. 15 Dec 2009. p. 183〕。ナポレオンの計画によれば、戦争で獲得した大砲を溶かし、鋳直して使う予定だった〔〔Willis, Mark. The Elephant in Place de la Bastille . 20 September 2007. Accessed 20 August 2011.〕。そして一本の足にかけられた階段から見物人は象の背中にある展望台に昇ることができることになっていた〔〔Katia Frey, ''L'Enterprise napoléonienne'', in ''Paris et ses fontaines'', p. 120-21.〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バスチーユの象」の詳細全文を読む
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