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一畑電車[いちばたでんしゃ]

一畑電車株式会社(いちばたでんしゃ、')は、島根県東部で鉄道事業を運営する企業。持株会社一畑電気鉄道の傘下にある。北松江線大社線の2路線を運営している。社名は、出雲市にある一畑寺(一畑薬師)への参詣者輸送を目的とした鉄道を計画し建設したことに由来する。本社は島根県出雲市平田町2226番地(雲州平田駅構内)。
本項では、主に北松江線・大社線を中心とした鉄道事業について記述する。広瀬線および前身の広瀬鉄道・島根鉄道については「一畑電気鉄道広瀬線」を、立久恵線および前身の大社宮島鉄道・出雲鉄道については「一畑電気鉄道立久恵線」を、鉄道事業以外を含めた歴史については「一畑電気鉄道#歴史」を参照。)は、島根県東部で鉄道事業を運営する企業。持株会社一畑電気鉄道の傘下にある。北松江線大社線の2路線を運営している。社名は、出雲市にある一畑寺(一畑薬師)への参詣者輸送を目的とした鉄道を計画し建設したことに由来する。本社は島根県出雲市平田町2226番地(雲州平田駅構内)。
本項では、主に北松江線・大社線を中心とした鉄道事業について記述する。広瀬線および前身の広瀬鉄道・島根鉄道については「一畑電気鉄道広瀬線」を、立久恵線および前身の大社宮島鉄道・出雲鉄道については「一畑電気鉄道立久恵線」を、鉄道事業以外を含めた歴史については「一畑電気鉄道#歴史」を参照。
== 歴史 ==

=== 創業期 ===
一畑電車の前身となる鉄道は、国鉄(鉄道院→鉄道省日本国有鉄道)の山陰本線1910年明治43年)に米子駅から出雲今市駅(当時)まで延長されたのを受け〔、出雲今市から一畑寺(一畑薬師)を結ぶ鉄道として1911年(明治44年)8月に762mm軌間の蒸気動力車による軽便鉄道敷設免許を受けたものに端を発する〔。計画当初は出雲今市から出雲大社までを結ぶことを念頭においていた〔〔が、国鉄では既に山陰本線から分岐する路線(後の国鉄大社線)の計画があったことから、目的地を一畑薬師に変更したものである〔〔。
1912年(明治45年)4月には「一畑軽便鉄道株式会社」〔『日本全国諸会社役員録. 第21回』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕の創立式が行われた〔。同社の設立にあたっては、関西鉄道の重役であった井上徳治郎〔帝国大学出の土木技師であり、関西鉄道の建設を計画施行した。同鉄道が国有化された後、鉄道院に移ったが1909年(明治42年)に辞職。才賀電機商会の顧問(『日本電業者一覧. 明治45年』 )となり才賀電機商会関係鉄道会社の役員に就任している。
三木理史「局地鉄道の普及と指導者集団-才賀電機商会の事業展開からの考察-」『近代日本の地域交通体系』大明堂、1999年〕、大阪にある才賀電機商会の技師である才賀藤吉〔才賀は同時期に島根県において電燈会社の設立にも関与している。出雲電気株式会社、1911年(明治44年)10月25日許可、1912年(明治45年)6月30日事業開始。隠岐電気株式会社、1911年(明治44年)7月18日許可、1912年(明治45年)11月28日事業開始。〕をはじめとする関西の財界人7人と、地元の有力者ら8人が発起人として参加していた。ところが、会社創立式からわずか半年弱後の1912年(明治45年)9月に才賀電機商会は経営破綻してしまった〔。このため、地元の有志で資本金の大半を負担することになり、そのうちの25パーセントを一畑寺が負担することになった〔。それまで、出雲今市から一畑薬師参りをするには、陸路を徒歩でたどるか、宍道湖小境灘(当時)まで舟で渡るかのいずれかの方法しかなかったため、出雲今市から一畑薬師の麓までの鉄道敷設は、一畑寺の念願でもあったのである〔。
その後、用地買収と測量を進めている際には、平田の町の南北どちらを通すかで論争になり、最終的に市街地の南側を経由することでまとまった〔。その後、国鉄との連絡を考慮し、軌間を762mmから1067mmに変更した〔上、1913年大正2年)9月15日に起工式が行われた〔。出雲今市から平田までは簸川平野の平坦な地域だったこともあり、7か月ほどで完成し〔、1914年(大正3年)4月29日に一畑軽便鉄道の運行が開始された。開通当日は2万人ほどの人出があったと伝えられている〔。その後、平田から一畑坂下(一畑駅付近)までの工事も進められ、1915年(大正4年)2月4日に全線開業となった。出雲今市から一畑までは70分前後で結ばれ〔、小境灘では松江行汽船と連絡していた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ichibata Electric Railway 」があります。



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