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バック・ロブレイ(Buck Robley、本名:Phil Buckley、1942年〔 - 2013年5月28日〔)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。インディアナ州インディアナポリス出身〔。 リングネームの読みは「ロブリー」が原音に近いが、本項では日本のプロレス業界に定着している表記を使用する。 == 来歴 == アメリカ海兵隊でのレスリングのキャリアを背景に、1966年にミッドサウス(オクラホマ、ルイジアナ、ミシシッピ、アーカンソー)のNWAトライステート地区にてデビュー〔。当時はフィル・ロブレイのリングネームを名乗り、1970年2月に日本プロレスに初来日している。 1971年、交通事故で負傷したためにマネージャーに一時転身〔。その後もレスラー兼任のヒールのプレイング・マネージャーとなり、バック・ロブレイと改名。トライステート地区ではブッカーも兼任し、若手時代のスタン・ハンセンとブルーザー・ブロディの面倒も見ていた〔。 以降もアマリロのNWAウエスタン・ステーツ・スポーツ(ザ・ファンクス主宰)やカンザスシティのセントラル・ステーツ・レスリング(ボブ・ガイゲル主宰)などに参戦しつつ、トライステート地区を主戦場に活動。1976年3月29日にはボブ・スローターと組み、ジェリー・ブラウンとバディ・ロバーツのハリウッド・ブロンズから同地区版のUSタッグ王座を奪取、ディック・マードック&テッド・デビアスともタイトルを争った。 1970年代後半よりベビーフェイスのポジションに回り、1979年にNWAトライステートのエース兼重役だったビル・ワットが新団体MSWAを興すと、リング内外においてワットの腹心となって活躍。同年11月12日にはワットとのコンビでマイク・ジョージ&ボブ・スウィータンを破り、2代目のミッドサウス・タッグ王者となる(同王座は1980年4月6日にもジャンクヤード・ドッグと組み、マイケル・ヘイズ&テリー・ゴディのファビュラス・フリーバーズから奪取している)。ブッカーとしても手腕を発揮し、MSWA初期の隆盛を支えた。この時期のロブレイは、"NOBODY CALLS ME YELLOW" と書かれた黄色のTシャツを着てリングに上がっていた〔。 プエルトリコのWWC転戦後の1981年10月、全日本プロレスの『ジャイアント・シリーズ』に来日。当時は全日本プロレスと新日本プロレスのレスリング・ウォーが激化しており、次シリーズの『'81世界最強タッグ決定リーグ戦』最終戦に新日本から引き抜かれたスタン・ハンセンが登場、ブロディとの再合体を果たした。過去の両者との関係から、この一件にはロブレイが関与していたともされている〔。 その後も全日本マットでブロディと行動を共にし、マネージャーとなって試合のセコンドも務めたが、ロブレイは実際にブロディのビジネス上のマネージメントを担当しており〔、全日本やプエルトリコへのブッキングも行っていた〔スタン・ハンセン『魂のラリアット』P112(2000年、双葉社、ISBN 4575291080)〕。ロブレイ本人も全日本からは厚遇され、1982年4月の『第10回チャンピオン・カーニバル』に出場した際は、ビル・ロビンソンをはじめ国際プロレスのエース外国人だったアレックス・スミルノフやモンゴリアン・ストンパーと引き分けるなど、一介の中堅外国人に止まらない扱いを受けた。また、カーニバル終了後に開幕した『グランド・チャンピオン・シリーズ』にもブロディのマネージャー役として残留参戦し、ブロディとジミー・スヌーカの仲間割れアングルにも一役買っている。 1983年はアラバマのサウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリング、1984年はフロリダのチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダなどを転戦し、1985年からはサンアントニオのテキサス・オールスター・レスリングの運営にもブロディと共に参画。引退後はルイジアナ州ボージャーシティに居住していた〔。 2013年5月28日〔、アーカンソー州リトルロックにて鬱血性心不全のため死去〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バック・ロブレイ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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