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Bad World Tourとは、マイケル・ジャクソンが1987年9月12日~1989年1月27日まで行った初のワールドツアーである。16ヶ月に渡り、15ヶ国で123公演が行われ、440万人が来場、1億2500万ドル(2012年の貨幣価値で2億4700万ドル)の売り上げを記録、興行収入、観客動員数などギネスブックに4つの記録が載った。 == エピソード == 1986年5月、ペプシとの契約を更新。ペプシはソロ・ワールドツアーの宣伝や公演も受け持つことになったため、それが大きな後押しとなる。 1987年6月29日、マイケルのマネージャー、フランク・ディレオが、ジャクソンの初のワールドコンサートツアーを行うことを発表した。ツアーで最初に訪れたのはマイケルが1973年にジャクソン5として公演したことのある日本である。 日本でスタートする公演は日本テレビが主催者となった。入場券購入の整理券は、配布当日になくなり、横浜スタジアムでの10月3日、4日の追加公演のチケットは2時間で売り切れた〔来日控えたマイケル・ジャクソン ハリウッドでリハーサル 読売新聞1987年8月19日 夕刊13ページ〕。公演を協賛した日本ペプシコは、コーラ500円分のシールを送るとチケット1万枚が当たる抽選を行ったが、約15万通の応募が集まった〔マイケル・ジャクソン "台風" 上陸! 成田VIP並み あやかり商法も過熱 読売新聞1987年9月10日 朝刊27ページ〕。 来日直前の9月6日の午後4時からは、日本テレビで特別番組「マイケル・ジャクソン・スペシャル」が放送された〔「マイケル・ジャクソン・スペシャル」6日、日本テレビで 読売新聞1987年9月5日夕刊6ページ〕。 9月9日に成田空港に到着したジャクソンは、約300人を越えるジャーナリスト、カメラマンに迎えられた。またマイケルの恩師、クインシー・ジョーンズ、日本公演の橋渡し役を務めたジミー・オズモンド、別の便で到着したチンパンジーのバブルス君も注目を集めた〔マイケル台風、日本飲み込む 150人と1匹引き連れ 1987年9月17日夕刊10ページ〕。チャーター機としてジャンボジェットが、合計150トンの機材〔M・ジャクソン! 東京陶酔 後楽園に3万8千人 読売新聞 1987年9月13日 朝刊22ページ〕やスタッフを運んだ。 後楽園球場で行われた3日間の公演では、延べ11万4000人が集まった〔。 9月21日の西宮球場でのコンサートでは、戦後唯一未解決となった身代金目的の誘拐殺人事件の犠牲者となった5歳の子供へのお悔やみの言葉を述べた〔マイケル・ジャクソン、誘拐・殺害された功明ちゃんに悔みの言葉 読売新聞 1987年9月22日 朝刊26ページ〕。 さらに大阪球場での公演も追加された。大阪球場での公演は10月8日から10日までの予定であったが、急性喉頭炎のため、10月10日から12日に変更された〔マイケル・ジャクソン、病気で大阪公演を延期 読売新聞 10月9日朝刊26ページ〕。日本全国では、4か所で14公演を行い、入場者数は約43万人となった〔"マイケル・ジャクソンの日本"は終わった 4球場14公演で43万人を動員 読売新聞1987年10月16日夕刊15ページ〕。 10月19日に成田空港から離日し、香港に向かった〔マイケル・ジャクソンが離日 読売新聞1987年10月19日 夕刊14ページ〕。 10月25日に日本滞在中のマイケル・ジャクソンを追った、ドキュメンタリー番組、10月31日に、横浜スタジアムでの公演が放送された〔。 本ツアーのファーストレグのセットリスト中のアルバム「BAD」からの新曲は17曲中2曲のみである。 2012年には、1988年7月16日のウェンブリー・スタジアムの公演がDVD化されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バッド・ワールド・ツアー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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