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バッファロー・セイバーズ : ウィキペディア日本語版
バッファロー・セイバーズ

バッファロー・セイバーズ (Buffalo Sabres) はアメリカ合衆国ニューヨーク州バッファローを本拠としているナショナルホッケーリーグ (NHL) 所属のプロアイスホッケーチームである。
== 歴史 ==

=== チーム創設から1980-1981シーズンまで ===
バッファロー・セイバーズは1970年にNHLに加盟した。その前身は、AHLのバッファロー・バイソンズ (Buffalo Bisons) であり、バイソンズは同リーグで数年の間強豪チームとして成功を収めていた。チームの発足は順調で、オフシーズンのNHLドラフトでも全指名順位中第1位で後の殿堂入り選手のセンター、ジルベール・ペロー (Gilbert Perreault) を獲得した。ペローはこの年、新人ながら38ゴール34アシストを挙げてカルダー記念賞(最優秀新人賞)を受賞したが、チームは24勝39敗15分でイースタンディビジョン5位であった〔。
1971-1972シーズンには、リック・マルタン(Rick Martin)をドラフトで獲得、シーズン終盤には、ピッツバーグ・ペンギンズからトレードでルネ・ロベールを獲得、ペロー、マルタン、ロベールのフランス系カナダ人選手で組んだフォワードラインは、ファンから同名の映画にちなみ「フレンチ・コネクション」(The French Connection) と名付けられた。チームは16勝43敗19分でイースタンディビジョン6位であった〔。

1972-1973シーズンには、ドラフトでディフェンスマンジム・ショーンフェルド(Jim Schonfeld)を獲得、また大ベテランのティム・ホートン(Tim Horton)が加入してリーダーシップを発揮した。チームは37勝27敗14分で創立から3シーズン目にして初のプレーオフ進出を果たしたが、準々決勝で、この年スタンレー・カップ優勝のモントリオール・カナディアンズに2勝4敗で敗れた〔。
1973-1974シーズンはペローが足の故障で8週間欠場、ゴーリーのロジャー・クロージャー(Roger Crozier)も膵炎でシーズン途中に離脱した。さらに2月20日のトロント・メープルリーフス戦を終えて、トロントからバッファローへ帰宅途中のホートンがセイバーズと契約した際にボーナスとして受け取ったデ・トマソ・パンテーラで事故を起こして亡くなった〔。ホートンは、飲酒運転に加えて、鎮痛剤を利用していた。チームは主力選手が欠場する中、プレーオフを逃したものの32勝34敗12分で5位となった〔。
1974-1975のレギュラーシーズン、フレンチコネクションがそれぞれトップ10に入る得点をあげて、チーム全体では354得点をあげた。チームは49勝16敗15分で新設されたアダムズ・ディビジョンで1位となった。プレーオフではシカゴ・ブラックホークスを4勝1敗、カナディアンズを4勝2敗で破り、スタンレー・カップファイナルに進出した。フィラデルフィア・フライヤーズとのシリーズでは、アウェイで連敗した後、華氏90度の高温の中で行われたホームでの第3戦(濃霧の中で行われたため、後に「霧の試合」(Fog Game) と呼ばれるようになった。)で延長の末、初勝利をあげた。第4戦も勝利し、2勝2敗としたものの、スター・ゴーリーのバーニー・ペアレント (Bernie Parent) を擁するフライヤーズの前に2勝4敗で敗れた〔。
1975-1976シーズンには、46勝21敗13分でディビジョン2位となった。ペローが113ポイントをあげるなど、フレンチコネクションの3人はいずれも86ポイント以上を獲得した。1月4日に行われたソ連のクリリヤ・ソビエトフとのエキシビションゲーム(スーパシリーズ)では、他の3チームがソビエトフに敗れる中、唯一NHLチームで勝利をあげた。プレーオフでは、セントルイス・ブルースを3勝2敗で破った後、準々決勝でニューヨーク・アイランダーズと対戦、2連勝の後、4連敗して敗れた〔。この年、加入したダニー・ゲア(Danny Gare)が50ゴールを挙げた。
1976-1977シーズン、48勝24敗8分でディビジョン2位となった。プレーオフ1回戦では、ミネソタ・ノーススターズを一蹴したが、2回戦でニューヨーク・アイランダーズに4連敗してシーズンを終えた〔。
1977-1978シーズン、44勝19敗17分でディビジョン2位となった。プレーオフでは1回戦でニューヨーク・レンジャースを破った後、フライヤーズに1勝4敗で敗れた〔。
1978-1979シーズン、シーズン途中にゼネラルマネージャーとヘッドコーチが解任されたが、暫定ヘッドコーチ就任から7連勝し、36勝28敗16分でディビジョン2位となった。プレーオフでは1回戦でペンギンズに敗れた〔。
1979-1980シーズン、前シーズンまでモントリオール・カナディアンズを率いて4年連続でスタンレー・カップファイナルを制覇していたスコッティ・ボウマンがヘッドコーチ、ゼネラルマネージャーに就任した。ロベールがコロラド・ロッキーズ(後のニュージャージー・デビルス)にトレードされた。チームは47勝17敗16分でアダムズ・ディビジョンで1位となり、プレーオフではバンクーバー・カナックスを3勝1敗、ブラックホークスを4連勝で破り、準決勝に進んだが、ニューヨーク・アイランダーズに2勝4敗で敗れた〔。
1980-1981シーズン、ボウマンがGMに専念することとなり、ロジャー・ニールソン(Roger Nielson)がヘッドコーチに就任、チームはペローが22試合で欠場する中、39勝20敗21分で2年連続ディビジョン1位となった。1981年3月11日にマルタンがロサンゼルス・キングスにトレードで放出された。プレーオフではカナックスに3連勝した後、ノーススターズに1勝4敗で敗れた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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