|
バディ・コルト(Buddy Colt)のリングネームで知られるロナルド・リード(Ronald Reed、1940年〔『国際プロレス クロニクル 上巻』特典付録CD-ROM 国際プロレス全パンフレット / '69 ロイヤル・シリーズ(2011年、クエスト)〕1月13日〔 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。メリーランド州ブレードンズバーグ出身。 バディ・ロジャースの影響下にある金髪の伊達男系ヒールとしてアメリカ各地の主要テリトリーで活躍したが、1975年に軽飛行機の墜落事故で重傷を負い、引退を余儀なくされた。 == 来歴 == デビュー翌年の1963年より、ロン・リード(Ron Reed)の名義でWWWFに出場。ベビーフェイスのポジションで売り出され、バディ・ロジャースのWWWF世界ヘビー級王座にも度々挑戦。ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンではキラー・コワルスキーやゴリラ・モンスーンの対戦相手を務め、ティム・ウッズやアーノルド・スコーランと組んでスカル・マーフィー&ブルート・バーナードのUSタッグ王座にも挑戦した。 WWWFを離れるとNWA圏を転戦し、中西部地区では1965年1月22日、マイク・デビアスを破りNWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座を獲得、以降もザ・ストンパーやボブ・ガイゲルと王座を争った。ハワイではキング・カーティス、ミスター・フジワラ、リッパー・コリンズらと対戦し、1966年1月5日にルーサー・リンゼイからNWAハワイ・ヘビー級王座を奪取している。 1969年、バディ・コルト(Buddy Colt)のリングネームでテキサス西部のアマリロ地区に登場。ヒールに転向してファンク・ファミリーのドリー・ファンク・シニアやテリー・ファンクと抗争を展開し、ドリー・ファンク・ジュニアが保持していたNWA世界ヘビー級王座にも再三挑戦した。同地区ではゴージャス・ジョージ・ジュニアをパートナーに、シャチ横内&ミスター・イトーを破りNWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座を獲得している。 同年9月、シャチ横内のブッキングによりゴージャス・ジョージ・ジュニアと共に国際プロレスに来日。ワイルド・アンガスとの2大外国人エースとして、横内、豊登、グレート草津、サンダー杉山、ストロング小林らと対戦した。10月開幕の『IWAワールドタッグ挑戦シリーズ』にもゴージャス・ジョージ・ジュニアとの金髪コンビで残留参戦、ブルーノ・アーリントン&イアン・キャンベルやシーク&エミールのエルマンソ・ブラザーズなどのチームとIWA世界タッグ王座への挑戦権を争った。また、来日時は「USAヘビー級王者」を名乗り、9月13日に北九州にてシャチ横内を相手に防衛戦を行ったが〔、10月14日に東京の葛飾区体育館にてストロング小林に敗れ、タイトルを明け渡している〔。 1970年代は南部のジョージアおよびフロリダを主戦場に活動。ジョージアでは1970年9月4日、ニック・ボックウィンクルを破りNWAジョージア・ヘビー級王座を獲得。フロリダでは1972年9月5日にミスター・レスリングからフロリダ版のNWA南部ヘビー級王座を、1973年2月20日にはジャック・ブリスコからNWAフロリダ・ヘビー級王座を奪取。フレッド・ブラッシー、ボブ・アームストロング、ミスター・レスリング2号、ロッキー・ジョンソン、マーク・ルーイン、ポール・ジョーンズ、エディ・グラハム、ビル・ワットともタイトルを争った。 1975年2月20日、ボビー・シェーン、マイク・マッコード、ゲーリー・ハートらと軽飛行機で移動中に墜落事故に遭い、選手生命を断たれた(コルトは自家用操縦士のライセンスを取得しており、当日もセスナ182を自ら操縦していた)。引退後はフロリダにてヒールのマネージャーやカラー・コメンテーターを務めた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バディ・コルト」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|