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バフチサライ : ウィキペディア日本語版
バフチサライ

バフチサライ((バフチサライ)、(バーチャサライ)、(バフチェサライ))は、クリミア半島の都市。人口は33,800人。「バフチサライ」とは、クリミア・タタール語で「庭園の宮殿」(ペルシア語の Bāghche Sarāy に由来)の意味。1532年から1783年までクリミア・ハン国首都であった。
== 歴史 ==
ビザンティン帝国時代、8世紀につくられたや、1532年に、バフチサライがクリミア・ハン国の首都となるとともに、クリミア・ハン国の君主によって建設された宮殿(ハンの宮殿)が残る。宮殿は1736年ロシア軍によって破壊されたが、その後修復された。クリミア・ハン国は1783年、ロシアに占領される。
ハンサライには、クリミア・ハン国の最後のハン、が妻マリアと愛妾ザレマを偲んでつくらせた噴水「涙の泉」()がある。二人を亡くしたギレイは「石にも涙を流させよ」と命じたという。プーシキンはこの噴水に題をとり、詩『バフチサライの泉』を詠んだ。
また、バフチサライはロシア帝国内のテュルク系ムスリムの地位向上を目指す文化運動であるジャディード運動が始まった街でもある。1884年、バフチサライの元市長であったクリミア・タタール人イスマイル・ガスプリンスキーによって、西洋式のカリキュラムをクリミア・タタール語で教授する小学校がバフチサライに開設された。この小学校は「新方式」(ウスーリ・ジャディード)と呼ばれ、ジャディード運動の語源となった。ガスプリンスキーはその後も新聞『テルジュマン』紙の発行などの活動を精力的に行い、バフチサライでクリミア・タタール人による盛んな言論活動が行われることとなった。
第二次世界大戦中の1944年スターリンによってクリミア・タタール人が中央アジアフェルガナ盆地などに追放させられたため(クリミア・タタール人追放)、バフチサライのクリミア・タタール人人口は皆無となった。ソ連時代末期に帰還が認められると、バフチサライでも多くのクリミア・タタール人が移住先から帰還するようになり、現在では再び人口の一定数を占めるようになった反面、ウクライナ人ロシア人との共存をどう図るかが大きな課題となっている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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