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『バフチサライの泉』 (バフチサライのいずみ、) は、1824年に出版されたロシアの詩人アレクサンドル・プーシキンの詩〔プーシキンの詩の原文は次を参照。"" .〕、およびそれに基づくバレエ作品。 バレエとしてはR・ザハロフ振付、B・アサフィエフ作曲の全4幕のものが最も知られている。 == 概要 == 1820年4月、自由主義的な詩作が皇帝アレクサンドル1世の忌諱に触れたプーシキンは、名目だけ官吏の地位を保ったまま帝国の南部へ追放処分を受けた。最初の任地、ウクライナ中央部のエカチェリノスラフに到着すると発熱で臥せってしまうが、偶然そこに旅行中のN・ラエフキー将軍の一家が通りかかった。プーシキンに同情的であったラエフキーは同行をもちかけ、こうして将軍一家とともにカフカース地方をめぐる4ヵ月間の旅に出ることになった〔池田健太郎 『プーシキン伝』 1974年, 中央公論社, pp.110-133.〕。一行がクリミア半島の旧都バフチサライを訪れたのはその帰り際の9月である。 16世紀にバフチサライに建造されたイスラム教徒の宮殿には、涙の泉 () と呼ばれる噴水があった。これは往時のクリミア・ハン国の汗が、思いを寄せていた異教徒の女奴隷の死を悼み、涙を流す噴水として作らせたものである。プーシキンはこのときの見聞をもとに、翌1821年から2年がかりで600行から成る物語詩 『バフチサライの泉』 を書き上げた。冒頭の2節は以下のとおり。 詩は韻を数多く踏んでおり〔引用した2節では、1・3行目、2・4行目、6・7行目、14・15行目の末尾がそれぞれ同じ母音になっている。〕、構成としては当時プーシキンが傾倒していたバイロンの影響を受けているという。なお追放中のプーシキンは収入が10等官の年俸700ルーブリのみで生活に困窮していたが、この詩の出版によって一度に3,000ルーブリの大金を手にすることとなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バフチサライの泉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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