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ヴィルヘルム1世( 1797年3月22日 - 1888年3月9日)は、第7代プロイセン王(在位:1861年1月2日 - 1888年3月9日)、北ドイツ連邦主席(在任:1867年7月1日 - 1871年1月18日)、初代ドイツ皇帝(在位:1871年1月18日 - 1888年3月9日)。 第5代プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の次男。兄である第6代プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に子供がなかったため、1861年の兄王の崩御でプロイセン王に即位した。軍制改革をめぐって衆議院との対立が深まる中の1862年にオットー・フォン・ビスマルクをに任じ、軍制改革を無予算統治で断行。ドイツ統一戦争に乗り出し、1871年の普仏戦争の勝利でドイツ皇帝に即位してドイツ統一を達成した。ビスマルクとはしばしば意見対立しながらも崩御まで彼を首相として重用し続けた。'' 1797年3月22日 - 1888年3月9日)は、第7代プロイセン王(在位:1861年1月2日 - 1888年3月9日)、北ドイツ連邦主席(在任:1867年7月1日 - 1871年1月18日)、初代ドイツ皇帝(在位:1871年1月18日 - 1888年3月9日)。 第5代プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の次男。兄である第6代プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に子供がなかったため、1861年の兄王の崩御でプロイセン王に即位した。軍制改革をめぐって衆議院との対立が深まる中の1862年にオットー・フォン・ビスマルクをに任じ、軍制改革を無予算統治で断行。ドイツ統一戦争に乗り出し、1871年の普仏戦争の勝利でドイツ皇帝に即位してドイツ統一を達成した。ビスマルクとはしばしば意見対立しながらも崩御まで彼を首相として重用し続けた。 == 概要 == 1797年3月22日に第5代プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の次男として生まれた。1807年にプロイセン軍に入隊し、解放戦争にも従軍。ナポレオンを産み落とした革命への憎しみを強めた。1829年にザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公女アウグスタと結婚。1840年に子の無い兄フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が即位すると第一位王位継承権者となる(→''前半生'')。 1848年革命の際には自由主義派の憎悪の対象となり、一時イギリスへの国外亡命を余儀なくされたが、革命の勢いが衰えた後に帰国。剛直な武断派として自由主義者を弾圧して「榴弾王子」と呼ばれた(→''1848年革命の鎮圧'')。 1849年からで暮らすようになったが、これ以降自由主義的な妃アウグスタの影響を受けて自由主義勢力と親交を持つようになり、「」と呼ばれる自由主義的保守派勢力が彼を取り巻くようになった(→''自由主義勢力への接近'')。 1857年に兄王が精神病となり、プロイセン憲法上彼が摂政となるべき状況となったが、兄王を取り巻く強硬保守勢力「」が彼を倦厭したため、憲法上根拠がない「国王代理」という地位に就任した。この地位にある間は独自の政策を行うことを避け、兄王の従来の政策を踏襲した。やがてこの地位の憲法上の根拠のなさが問題視され、1858年に至って摂政に就任した(→''「国王代理」から摂政へ'')。摂政就任後には自由主義に一定の理解を示した独自の政策を開始。カマリラを失脚させて自由主義的保守派貴族による「」内閣を誕生させた(→''「新時代」'')。 アルブレヒト・フォン・ローンに立案させた軍制改革(プロイセン正規軍の徴兵数増加と兵役3年制、自由主義的なラントヴェーアから野戦軍の機能を除くことを柱とする)を目指したが、これにより自由主義勢力との対立がはじまった(→''軍制改革'')。 1861年1月2日、兄王の崩御により63歳で第7代プロイセン王に即位(→''プロイセン王即位'')。同年11月に行われた総選挙で自由主義勢力がの多数派を得たため、軍制改革をめぐる自由主義派との対立が激化した。自由主義勢力の台頭に危機感を抱き、新時代内閣を更迭して政権の保守化を強めた(→''衆議院との対立激化'')。 衆議院との妥協にも衆議院へのクーデタにも消極的であったヴィルヘルムは退位の意向を強めたが(→''妥協案の拒否と退位の意思表示'')、ローンと親しいオットー・フォン・ビスマルクを引見した際に無予算統治によって軍制改革を断行する彼の覚悟を聞いて期待感を抱き、彼をに任命した。ビスマルクの主導の下、軍制改革は無予算統治で断行された(→''ビスマルクを首相に任じる'')。 1863年にオーストリアの主導で開催されたドイツ諸侯会議には出席の意思を強めていたが、ビスマルクの説得を受け入れて断念した(→''ドイツ諸侯会議出席問題'')。1864年にシュレースヴィヒ・ホルシュタインをめぐって発生した対デンマーク戦争ではアウグステンブルク公フリードリヒの独立公国構想を強く支持したが、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン併合を狙うビスマルクの説得により断念した(→''対デンマーク戦争'')。 戦後、ヴィルヘルムもシュレースヴィヒ・ホルシュタイン併合論に傾き、オーストリアとの対決路線をとり、1866年の普墺戦争においてオーストリアを下した。講和交渉をめぐってはオーストリアやザクセンに寛大な講和条約を目指すビスマルクと一時対立したが、最終的にはビスマルクの説得を受け入れている(→''普墺戦争'')。普墺戦争の勝利によりオーストリアが連邦議会議長国を務めるドイツ連邦は解体され、プロイセン王を盟主とする北ドイツ連邦が創設され、ヴィルヘルムは北ドイツ連邦主席に就任した(→''北ドイツ連邦主席'')。 ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家のレオポルトのスペイン王立候補計画には、フランスとの対立を懸念して消極的だったが(→''スペイン王位継承問題'')、バート・エムスでの保養中、フランス大使からフランス国民への弁明を要求された際にはこれを拒否した。ビスマルクはこの一件についてドイツ・ナショナリズムとフランス・ナショナリズムの双方を煽るような内容で発表した。これにより北ドイツ連邦は南ドイツ諸国と合同で普仏戦争に突入した(→''エムス電報事件'')。同戦争の勝利により、南ドイツ諸国が北ドイツ連邦に参加する形でドイツ帝国が建設され、ヴィルヘルムはドイツ皇帝に即位した(→''ドイツ皇帝即位'')。 ビスマルクが行った対カトリックの文化闘争をめぐってはプロテスタントにも影響する場合にはブレーキをかけた。ヴィルヘルム暗殺未遂事件がきっかけで1878年に制定された社会主義者鎮圧法については積極的に支持した。自由主義的な皇太子フリードリヒを倦厭し、保守的な皇孫ヴィルヘルムに期待感を持っていた(→''皇帝として、暗殺未遂事件と社会主義者鎮圧法'')。 1888年3月9日に崩御。皇太子フリードリヒがフリードリヒ3世として即位したが、彼も在位3ヶ月ほどで崩御したため、ドイツ皇位・プロイセン王位は孫のヴィルヘルム2世に引き継がれた(→''崩御'') 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 William I, German Emperor 」があります。 スポンサード リンク
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